ハードコア・プロファイルズ −人間の実存的状況の病理と処方− 第11回 立つことB −処方箋− 三、各徴候への処方箋 問題の本質は信仰の欠如と真理からの逸脱です。具体的場面での注意点は、人間の精神・身体と霊的敵との関係の病理に対する詳細な知識と分析がないままに、やみくもに「イエスの血と名によって、悪霊よ、出ろ!」式のミニストリーに走りますと、しばしばクライエントを深く傷つけることがあります。今日の日本の教会ではミニストリーを提供する側も受ける側も御言葉の深い真理の学びが薄く基礎が極めて脆弱なままに、ある種の乱暴な判断や実行が先行しています。基礎医学があって臨床医学が確立されるように、「基礎霊理学」とも言うべき分野の確立が急務です。たとえば多重人格障害と霊的病理などは今日でもよく分からない領域です。また欧米で定評のある基礎的文献も採算を度外視しても翻訳・出版されるべきでしょう。 この領域での最も重要な問題は、パワーによって悪霊を追い出しても、本人が深い悔い改めと主イエス・キリストに対する完全なる明け渡しによって、自らの意志によって、自ら思いを御言葉と真理で武装し、自ら神の子の権威を行使して敵に対抗する姿勢を取らない限り、元に戻るケースが多いのです。この場合しばしば前の状態よりも悪くなります(ルカ十一・26)。敵によって苦しめられている多くの人は、大抵自らある領域に敵の侵入を許す穴を空けています。逆に言えば、本人が真にこれらの条件を満たして穴をふさぐならば、パワーによるいわゆる「悪霊追い出し」は不要です。いずれにしろキーワードは「自ら」です。 (一)症例一には受動性からの脱却 その精神病理の特徴は「してもらう姿勢」、つまり過度の依頼心です。時に「ラーメンにすべきでか、お寿司にすべきか?」と聞かれることすらあります。注意しないとクライエントとカウンセラーの間に相互依存関係ができ、共倒れになります(マタイ十五・14)。また彼らはしばしば"声"を慰めとして、自ら"声"を求めています。キリスト以外の何かに頼ろうとすることが穴になり、そこに敵は付け込んできます。 またこの姿勢は長期間にわたって条件付けされており、一朝には解決しません。つまり霊的要因とその人の精神病理が複雑に錯綜しているのです。また"声"を聴くことを通常の精神科医に訴えるならば、ほとんどが精神分裂病(統合失調症)とされ投薬を受けます。医師は保健制度のため十分な精神療法ができず(本音は面倒なので)、投薬に逃げる傾向があります。ある例では十数種の薬物を飲まされています。こうして薬物依存に陥ることが稀ではありません。日本の精神医療は寒い状況にあります。 聖書的に言えば、真理に対する信仰によって、その人の生活経験の中で養われてきた肉(flesh)の処理と御霊による新たな歩みの条件付けをコツコツと積み上げることしかありません。しかし主の配剤によって生活条件などが一変し、その中で自ら主を仰ぐようになると、きわめて短期間で劇的に変化するケースも少なくありません。これは凸と凹のように信仰による応答(能動性)と御霊の働きを受けること(受動性)がハマル瞬間であり、、人の思いをはるかに超えた神の摂理です。とてもマニュアル化できる領域ではないのです。 自ら主に頼ること、自ら祈ること、それに対する確かな応えを自ら得ることを通して、キリストに対する信仰(信頼感)に目覚めると、主ご自身と真理に対する深い飢え渇きを覚え、ひたすら御言葉を求め、御言葉によって養われます(第一ペテロ二・2)。こうして霊は強くなり、魂の深い領域に対する御霊の働きによって(第一コリント二・11)、魂の性向や肉の問題も処理されていきます(ガラテヤ五・17,24)。いったんこの好循環に入りますと、後は目覚しく変化し、成長していきます(第二コリント三・17,18)。 (二)症例二にはキリストに対する完全なる明け渡し 占いのごとくに"個人預言"を求める姿勢の根本には不信仰があります。占いや人の指示を求める時の心のあり方は、内的状態や外的環境を自ら思い描いたパタンで制御できなくなるときに緊張感と不安感が亢進し、これを早急に解消しようとする取り繕いなのです。 神の声を求めることはもちろん霊的ですが、神は必ず時と場面に応じ必要にして充分なる言葉を語って下さるのです。そのために私たちの内にはキリストからいただいた油が留まっているのです(第一ヨハネ二・27)。またすでに客観的に聖書の啓示が完成されている現在、私たちの信仰生活といのちにとって必要なものはすでにすべて与えられています(第二ペテロ一・3)。私たちに必要なのはただ信仰です。信じた者は自らのわざを止めて安息に入ります(ヘブル四・3)。 時に他人や状況、さらに自分自身をすらコントロールできなくなることがあります。その際私たちはしばしばパニックに陥りますが、聖書は「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」と言います(イザヤ三十・15)。自分自身を神にお委ねしたのであれば、すべてをコントロールしているのは神です。すべてが壊れ自分の当てにしていた対象がすべて失われるように見える時も、それを支配するのは神です。「神はあなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。」とあります(詩篇百三・5)。 新約にあってはすでに御子によって神は語ったのです(ヘブル一・1,2)。言葉はすでに与えられているのです。誰でも主を直接知ることができるのです(ヘブル八・11)。キリストの言葉を内に豊かに住まわせるならば(コロサイ三・16)、それを用いて御霊が必要な御言葉を語って下さいます。この言葉はレーマであり、霊であり、またいのちです(ヨハネ六・63)。私たちを霊的に生かすのです。キリストはいのちを与える霊として私たちの霊の内に住んでいて下さるのです(第一コリント十五・45)。新約では旧約的預言者は不要です。まことの預言者が内におられます。モーセでもなく、エリヤでもなく、このお方に聴くことです(マタイ十七・5)。 (三)症例三にはキリストの勝利と安息 パラノイドに陥っている人々の特徴は安息の欠如です。「敵と闘え」、「勝利せよ」などの掛け声によって肉が煽られ、その強迫観念に追われ、霊的生活にとっての土台である安息から逸脱しています。十字架でキリストが決定的勝利を得られた新約においては、キリストと有機的にひとつにされた私たちもその勝利に与るのです(ヘブル二・14、第一コリント十五・57、第二コリント二・14)。これから自分で闘って勝利を得るのではなく、すでに得ているキリストの勝利を適用するだけです。私たちはキリストにあって勝利者以上の者(闘わずして勝利者)なのです(ローマ八・37)。キーワードは「キリストにあって」です。号令に煽られて平安から逸脱すること自体がすでに敵の罠に落ちている兆候です。 霊的な権威を帯びるコツはまず徹底的に権威の源なるキリストに服することです(ヤコブ四・7)。服することは牧師や"預言者"に盲従することではなく、安息にとどまり、平安の中に座することです。権威は学歴学位や実績功績によりません。服する時にキリストが下さった権威を行使できるのです。今日あまりにも多くの方々が騒がしい声によって様々な働きや実行へと駆り立てられ、安息することがないのです。美味いラーメンのスープのようにじっくりとキリストの安息と平安の内に煮込まれる必要があります。 この安息にとどまるならば、敵に対する対処が自然と分かるようになります。敵の狡猾なワザを見破ることもできます。私たちは敵の計画(第二コリント二・11)と策略(エペソ六・11)に対して無知であってはならないのです。キリストのうちにとどまるならば、キリストの権威を帯びます。安息と平安の中から語り出される言葉(レーマ)を敵は恐れるのです。こちらが恐れに満ちて浮き足立っていれば、私たちの言葉は空疎であり何の権威も力も伴いません。 |