ハードコア・プロファイルズ

−人間の実存的状況の病理と処方−




最終回


神の処方箋−私ではなくキリスト



聖書は霊的科学の書

聖書は宗教の書ではなく、また単に道徳を説く書、人生論を説く書、励ましや慰めの書でもありません。人間の構成や有様を暴露し、その処方を明確に提示する霊的科学の書です。そこで自然科学者である私は霊的領域を射程に入れた「霊精神身体医学」を提唱するわけです。


断片化の病理

今日の病理のひとつに「断片化」があります。互いの関係も、個人の心も断片化されています。福音や真理の理解も断片化されています。人間視点の「福音」、すなわち自分の嗜好に合う御言葉を文脈から切り離してスローガンとする傾向が見られます(第二テモテ四・3)。また「日本文化に文脈化された福音」なる標語がありますが、自然科学者として言えば、神の創造の整合性(自然法則)の中で個々の事象を理解するのと同様に、神の経綸・配剤(霊的法則)の整合性の中で御言葉を理解すべきであって、神視点の福音、すなわち「神の計画に文脈化された福音」が回復される必要があります。重力の法則には服するのみであり、真理(霊の法則)に対しても同様です。福音はひとつしかありません(ガラテヤ一・7)。今日の福音の障害は病んだ母性による甘えの病理とアニミズムにあります。その中で私たちは「まっすぐに福音を語り」(第二テモテ二・15)、「あますところなくみことばを語る」(第二テモテ四・17)べきです。


自由への一歩は真実の暴露

あらゆる人間の苦悩や葛藤から解放される鍵は、真実を光の下に置くことです。むしろ苦悩自身がその真実からの逃避的取り繕いそのものです。心を病む人々の特徴は心の取り繕いにあります(エレミヤ十七・9)。その中心には自己が息づいており、その自己を自分で助け、弁護あるいは主張する努力そのものが苦悩として経験されるのです。解放への鍵は真実の暴露と自己(魂)を手放すことです(ルカ九・23,24)。

今日のニッポンキリスト教での醜聞や事件、あるいは時々の流行などもまた取り繕いの現われと言えます。否、むしろ教界を観察するほどに人間存在の悲しい性(ルビ:さが)がモロに表出していることを認めざるを得ません。今日のニッポンキリスト教においては教職者と言われる人々がむしろ病んでいます。教職を得ること自体が自己の欠けを埋め合わせる繕いであり、伝道や牧会で成功することによって自己を確立しようとしています。しかもそのプライドのゆえにその真実を直視せず、取り繕いに陥る結果、その下にいる肢体が巻き込まれて苦しんでいる病態をしばしば観察します。

これらの様々の問題の病理を分析することは可能ですし、それが私の仕事でもあり、よって私はある種の人々にとってしばしばうとましい存在であるわけですが、あらゆる人間の問題の根底にある原因はただひとつ安息と満足の欠如です。エデンの園でまことのアイデンティティ(自己尊厳)と安全の保証と必要の満たしを失って以来、自己の努力、すなわち肉でそれらを再獲得する必死の試みが人間の実存的状況を綾なし、社会を、そして歴史を紡いできたわけです。自分の才能と手段で何かを獲得し何かをなし得ることがその人の価値を決め、地位を得、生活を担保し、アイデンティティを確立すると信じられてきたわけです、が、今日その神話はもろくも崩壊しました。


人間の苦悩の本質は取り繕い

現在世の人々は何か真実なもの、何か深いもの、何か本質的なものを捜しています。しかし今日のニッポンキリスト教の語る福音はきわめて表層的で浅薄です。キリストを信じれば天国に行ける、仕事も人間関係もハッピーになる、家内安全・商売繁盛、あるいは金歯金粉のレベルの証ししかありません。世の人はすでにニッポンキリスト教の真実を見抜いています。塩気を失えば人々から足蹴にされるのです(マタイ五・13)。「落語福音」や「おもてなしイベント」など今日のニッポンキリスト教における売れる本や企画を見れば分かります。これらは世に対する媚です。しかし世の人はもっと深いものを求めています。イエスがサマリヤの女にしたように人間の根源的な必要を暴露し、それに直接に応えること、これが真の福音です。

この連載において読者の内に様々な反応があったと推測します。ある人は編集部に抗議の電話を入れ、ある人は内心忸怩たる思いであってもポーカーフェイスを装い、等々。私もニッポンキリスト教の「議会」から田中知事のように不信任決議を受けるかも知れません(笑)。しかしながらそのような反応はその人の真実に触れたからです。人は自らの真実を暴かれることには必死の抵抗をするものです。これが肉の働きです。自己保存欲求の表現です。私は専門家としてそのような心の動きを見抜くことができます。さらに霊は人の心の深みを把握します(第一コリント二・11,12)。


人間の本質的必要なるキリスト

この自己矛盾した不条理な存在である人間の真の必要はただキリストです。真の安息と満足は彼にあります。エデンの園で神が提供したかったもの、それはいのちの木、神のいのちです。全聖書を理解するためには「いのち路線」と「善悪路線」の二つのディメンジョン(次元)から見る必要があります。教会の選びとイスラエルの選びの関係にしてもこの二平面の違いが本質です。キリストはそのいのちの実体化として、肉体を取り地上に仮庵あるいは幕屋を張り(ヨハネ一・14原語)、いのちを届けたのです。まずはただ一粒の麦として、次に死と復活を経て殻(肉体)を割っていのちを解き放ち、ご自身がいのちを与える霊となり(第一コリント十五・45)、単なる土の器に過ぎない私たちの内に栄光の望みとして住んで下さるのです(第二コリント四・7、コロサイ一・27)。生きているのはもはや私ではなく、キリストです(ガラテヤ二・20)。

こうしていのちは再生産を続け、多くの実を結び、その実によりキリストが表現されます。教会(エクレシア)とは人間が組織した教団や団体ではなく、「召し出された者たち」、すなわち私たちです。私たちは神の宮、住まいとして共に建てられつつあります(エペソ二・21,22)。教会とはキリストの豊かさが満ち満ちた領域に他なりません(エペソ一・23)。このキリストが解き放ったいのちだけが私たちを満たし、癒し、ご自分の妻としてしみもしわも傷やその類の一切ない存在とするために、キリストは私たちを愛し、慈しみ、整えて下さるのです(エペソ五・26,27)。

このヒューマトリクスの上に自分の位置を見出すならば(マッピング)、自分の「欠け(フェイスの穴)」を自己診断し、それを埋めるに必要な真理を知ることが可能です。そしてその「欠け」を埋めるのは自己努力や何業苦行ではなく、キリスト御自身です。それはただフェイス(信仰)によります。キリストご自身が私たちの知恵、義、聖、贖いとなるのです(第一コリント一・30)。また御霊の実は単数形であり、その九つの要素である愛、平安、喜び、柔和などはキリストのものです(ガラテヤ五・22,23、ヨハネ十五・4)。


神の究極的処方箋

私たちが自己を否み、自分の十字架を負って、魂を救おうとしないでむしろ失う時、私たちは内にいますキリストを見出します。これがキリストの弟子になる必要条件です(ルカ十四・27)。このキリストこそが神にとって高価で尊い存在であり、神が唯一受け取られる供え物であり、神が喜ぶ存在なのです。私(自己)ではなくキリスト。これが福音の本質かつ究極であり、われわれを自己矛盾に満ちた不条理な実存的状況から解放する唯一の神の処方箋なのです。

最後に繰り返します:「あなたがたの間からパン種を除き、聖別され、自己を焼き尽くしなさい」。God bless you !(了)