ハードコア・プロファイルズ

−人間の実存的状況の病理と処方−




第4回

アイデンティティの確立A

-徴候−



深い平安と安息を伴う神による被受容感と、神の子としての真の霊的アイデンティティを獲得し損なうと次のような兆候を示します。


(1)兆候1:過敏な良心

霊的生活にとって最も大切な要件は神に対する良心の安息です。過去、現在、未来の諸々の罪(sins)はすでに十字架でキリストの血によって完全に清められている事実(ルビ:リアリティ)を信仰によって主観的に経験することです(ヘブル九・12,14、十・22)。私たちの内に住む罪(Sin)もキリストが罪とされ、その肉にあってすでに裁かれ(ローマ八・3、第二コリント五・21)、また私たちも罪に対して死に(ローマ六・2,7)、罪は無力にされている経験を得ることです(同六・14)。私たちの責任はこの肉体を罪にゆだねないことです(同六・12,13)。

しかしこの幸いな真理を見損なったり、信じ損なうとき、良心はとがめを得て不安と緊張を覚えます。これはきわめて一般的な症状ですが、その原因は自分の何かに基づいて神に受け入れられようとする努力です。ある人は過去を探索してこれまで犯した罪をことごとく思い出し、すべて告白しなくては赦されないと信じ、強迫的に内側を探索する絶望的な試みに陥ります。時に自分の犯した罪の醜さや結果の甚大さを思うとき、それを自分の意識に浮かべることすらも恐れます。まして神の前に出すなどはまさに恐怖なのです。

本質的な問題は自分の何かを当てにする姿勢(=不信仰)なのですが、自分の努力に飲み込まれているため、そのことに気がつきません。自分では熱心に信仰に励んでいると思い込み、プライドだけを建て上げます。内側に不安感や恐れを抱えたまま、神に対する"奉仕"に入れ込み、見かけ上は熱心な人として評価は得ます。しかし努力を積めども積めども、内的な真の安息と平安を得ることはできず、かえって自分の粗ばかりが見えてきて、自分の落ち度に失望落胆し、神に拒否された感覚を強め、挫折感と焦燥感が募ります。

このとき自分の内的真実を他人に見透かされることを恐れて、外見は一部の隙もない様を装います。交わりにおいて仮面をつけるのです。よって自己防衛的姿勢が前面に出るために、他人と滑らかな関係を育むことができません。こうして神ばかりでなく、他人との関係も不安と緊張に彩られ、心からほっとする人間関係を構築できません。

ついに取り繕いが破綻すると内的な緊張感やフラストレーションを何らかの逸脱行為によって解消しようとします。飲酒、喫煙、セックス、ギャンブル、衝動買い、万引き、暴走行為などです。クリスチャンでもこのような束縛にある人は多いのです。かくしてますます良心に傷を受けて、自責感と緊張感を強め、その解消のためにこれらの行為に耽溺し・・・といった悪循環に陥ります。これがアディクション(中毒状態)です。


(2)兆候2:自己属性と達成によるアイデンティティの確立

<兆候1>の場合は内的に安息の欠如を解消しようとする試みでした。これに対して<兆候2>は比較的才能や外的条件に恵まれ、この取り繕いが見かけ上成功するケースです。これは緊張感をキリスト教界における"正当なプロトコル(行動様式)"に従って解消あるいは補償する試み、またその達成によって自己のアイデンティティを確立・担保する試みです。これはいわゆる「献身者」にしばしば見られるパタンです。すなわち神の召命というよりは、「献身」により単なる信徒以上の立場を得ることによって、アイデンティティを確立しようとするのです。

この場合アイデンティティの根拠は伝道や牧会における成功であり、自己属性や達成の上にプライドを建て上げます。そこで絶えず評判や礼拝出席者数などが気になり、そのアップダウンによって内面が揺り動かされます。あるいは牧師同士で腹の内で教勢を比較して張り合ったりします。すでに述べた「先生」と呼称されなかったり、それなりの敬意を受けないと怒り出すなどの症状はすべてこの病理によります。つまり「無冠のクリスチャン」では自己尊厳を保つことができないのです。そこで牧会の成功者となり、神学博士号や特定の団体において地位を得ることとアイデンティティを確立することが等価になります。即ち本質的アイデンティティと機能的アイデンティティの混同がなされます。

これは教会の役員などにも起こります。その「役員」のポストが自己のアイデンティティの証明とみなされ、その中に地位と影響力を得ることによって自己実現を試みるわけです。ここにあるのは抑圧された霊感情観念複合体のために真の平安と安息を欠いた不安と緊張感を抱えたままの強烈な魂です。「役員」というペルソナ(機能的役割)を通して、魂の自己保存欲求と自己主張のエネルギーがもろに表出されるのです。こうしてしばしば教会の役員会は意味不明な主張の張り合いで錯綜し消耗戦の様相を呈します。教界における人間関係がしばしば世のそれよりも錯綜する理由は、脆弱な霊的アイデンティティを保つための互いの必死の取り繕いが根底にあるからです。機能的属性による自己尊厳を賭けた相克が展開し、相手を受け入れる余裕がないのです。よって延々とすれ違いが続きます。

これは神の前での絶対的アイデンティティではなく、人々の間での相対的アイデンティティを確立しようとする罠です。内実のある本質的アイデンティティではなく、外面的属性や達成によって肥大したものであって(アイデンティティのバブル化)、きわめて脆弱で傷つき易いのです。そこで一方で絶えず集団内部からの自己の立場を脅かす存在の台頭を恐れ、他方で外部からの攻撃や批判に対して敏感になります。このような状態をパラノイドと言います。カルトではこれが発展し被迫害妄想を呈します。外面の尊大な自尊心と内面の臆病な劣等感は同じことの裏表です。


(3)兆候3:霊的鈍磨による霊的洞察の欠如

これは「イエス様を信じれば天国に行ける」的な幼稚な福音理解にとどまり、霊的真理に対する欲求もなく、自己の真実に関する感覚が欠如し、ほとんどノンクリスチャンと同じ生き方をしているケースです。よってアイデンティティの根拠もほとんど世の人と同じであり、社会における地位、評判、経済、家族などにあります。教会の「交わり」も霊的な養いを期待してというよりは、人脈を構築する目的であり、互いの評価も霊的な基準に拠らず社会的地位や業績によります。

こうして純粋な霊的真理の追究はなおざりにされ、聖書研究もこの世での問題解決、良好な人間関係の構築、経済的繁栄などを期待する目的に陥ります。よって行動パタンの基準もいわゆる"善人"になることであり、しかも良心が真に啓発されていないため霊的感受性が鈍く、霊的洞察がありません。社会的アイデンティティと信仰者のそれがほぼ同一視されるために、現実的利益のない聖書の深い霊的真理は彼らには無意味です。このような状態にとどまる場合さしたる葛藤も経験されず見かけ上ごく普通の社会人としてそれなりの地位と経済と評価を得ます。その価値観の基底にはこの世における適応と向上があるに過ぎません。


(4)まとめ

以上の三兆候は自己の才覚と資源によって、内面の安定とアイデンティティを確立しようとする営みであり、聖書的に言えば「肉(flesh)に属する人」の特徴です(第一コリント三・1-3)。パウロの言う肉とは霊的次元から分離されて体と魂によって、自己の価値観・能力・手法に頼って生きる様で、自己を主としています。霊は再生されていても抑圧され、機能していません。この三兆候は各人の魂の構成や肉の病理構造に従って多彩なスペクトルをもって混じり合います。次回は処方箋を提示します。