ハードコア・プロファイルズ

−人間の実存的状況の病理と処方−




第5回

アイデンティティの確立B

−処方箋−



三.各徴候への処方箋

この処方の本質はキリストにあって神がすでになして下さった霊的リアリティの内に自らの業を止めて座することです(エペソ二・6、ヘブル四・3)。キリストは私たちの罪々(sins)を負って私たちの身代わりとして十字架につかれたばかりでなく、アダムにある私たちをも十字架につけたのです(ローマ六・5,6)。この"私の死"の実体化こそ、罪と律法と神の裁きからの解放と、神による受容およびキリストにある新しいアイデンティティを確立する第一歩です。死を経ないものはすべてフェイク(偽造物)です。

昨今ありのままの自己を生かそうとする傾向が強まっています。しかし神が受け入れるのは、古い私の死を経た後に続く復活の領域の新しい私です。神は聖ですから肉を決して受け入れません(創世記六・3、十七・13,14、ローマ九・8)。私たちは御霊による心の割礼を受ける、否、受けたのです(ローマ二・28,29、ピリピ三・3a、コロサイ二・11,13)。肉は徹底的に死に渡される必要があります(ガラテヤ五・24)。対して前回述べた兆候はいずれも「肉に属する人」、すなわち「キリストにある幼子」の特徴です(第一コリント三・1-3)。肉とは善であれ悪であれ御霊によらず自分の資源で何かを達成しようとする取り繕いです。


(1)徴候@にはイエスの血

過敏な良心で苦しむ人は自分の肉を頼りとしています(ガラテヤ三・3)。しかるにパウロは肉に頼ることはしないと宣言します(ピリピ三・3b)。肉は神に敵対し神に従うことができず(ローマ八・7)、罪を犯すことが当然であること(ローマ七・5)、神を喜ばすことはできないことを知るならば(ローマ八・8)、ただ十字架による古い自己と肉の死のリアリティが実体化されることを願います。そしてすでにその事実は成就していることを見るならばただちに自分の取り繕いや業を止めて安息に入るでしょう(ヘブル四・3,10)。ところがこの兆候を示す人はたいてい「そんなに簡単にいかないから、こんなに努力して苦しんでいるのだ」と訴えます。実はこの言葉自身が肉に頼っていることを証明します。その根底には不信仰があります。まず自分の真実を認めることです。

この場合特に律法が問題になりますが、肉にある古い私は律法を決して守れません(ローマ三・20)。律法は内にある罪(Sin)を暴くために付加的に与えられ(ローマ五・13、七・13、ガラテヤ三・19)、キリストへの誘導係です(同三・24)。肉が律法を意識すればますます罪は燃え上がります(ローマ六・8-10、七・5、第一コリント十五・56)。一点でも律法を破れば死をもって償わなくてはなりません(ローマ六・23)。律法を守り得ない者には死があるのみです。しかるに私たちはすでに十字架で死んだのです(ローマ六・6)。よって私たちはその死によって律法を全うしたのです(ローマ七・4,6)。また御霊によって復活の領域に生きるときに律法を全うするのです(ローマ八・4)。それは信仰により、よって信仰は律法を全うします(ローマ三・31)。死んだ者は律法から解放されているのです(ローマ七・2)。

罪責感で苦しむ人々は肉によって律法を行おうとしますが(=「ねばならない症候群」)、かえって罪の意識を強めるだけです(ローマ三・20)。しかるに真に神の御前で良心の安息を得るのはただイエスの血によります(ヘブル十・19,22、第一ヨハネ一・7)。それは私たちの功績に一切よりません。もしそうであったならば恵みは不要です(ガラテヤ二・21)。イエスの十字架は「人が高価で尊い」からではありません。これはヒューマニズムに過ぎません。まず御父の満足と安息のため、すなわち御父の必要を満たすためでした。キリストは神の愛(赦し)と義(裁き)のジレンマを、その聖を損なうことなく十字架において解決されたのです。そしてキリストの内に置かれた私たちにも神の義がインプラントされたのです(ローマ三・21,22)。これは血潮によって実効化されます。また敵の罪定めの声を聞いてもなりませんが、これはすでに述べていますので繰り返しません。


(2)徴候Aにはキリストにある安息と満足感

自己の地位・職制・業績・達成などの上にアイデンティティを確立しようとする徴候は深い部分における真の平安と満足の欠如によります。これはしばしば肉において才能と能力に恵まれている人が陥る問題であり、一見すると伝道や牧会において華々しく成功しているように見えます。しかし本人はしばしばアイデンティティの脆弱性による内的な葛藤を覚えます。得ても得ても満足を知らないのです。またそれを脅かす者に過敏になります。

私たちはすでに天に座する者とされ(エペソ一・20)、やがて得る嗣業の保証として御霊を受け(エペソ一・13,14)、御霊は愛と平安と満足などの実を伝達します(ガラテヤ五・22)。御霊によるキリストの臨在に留まるとき内側は油によって滑らかにされ、甘く潤されます(エペソ三・16-19)。キリストとの甘い交わりを楽しむことによって、他の何かに対する飢え渇きを失っていきます。

最も大いなる神の業とはキリストを信じることであり(ヨハネ六・29)、またキリストのいのちを内に育てることです(ローマ八・29、ガラテヤ四・19)。目先の人のビジョンではなく、大いなる神のビジョンに自らの霊をチューニングする必要があります(エペソ一・17、三・3-11)。私たちはその秘められた神のご計画にあずかる者とされ(エペソ一・9)、すでにあらゆる霊的祝福を得ており(同3節)、神の愛のうちに置かれているのです(同三・17,18)。もしこれらのあらゆる富を真に霊の目で見て信仰によって経験しているならば、どうして他の何かを追求するでしょうか。すでにすべてを得ているリアリティの中にただ座するのみです!

この時、神ご自身が大きな業を、ご自身の証のためになすのです。新約の奉仕とは霊における奉仕であり、いのちをもたらす努めです(第二コリント三章)。私たちの霊は魂から分離されて、御座の前で絶えず御臨在を楽しみつつ、絶えざる祈りと賛美を捧げるのです。パウロのように真に天的光景を見た人はそれをひけらかすことはなく、むしろ秘めておくものです(第二コリント十二章)。


(3)徴候Bには魂の砕きと御霊の照明

これは魂があまりにもこの世に従って構成されていることによります。伝道や奉仕においても自分の培ってきた方法を採用するのです。しかもそのことに気が付いていない点が致命傷です(病職の欠如)。しかるに御言葉はこの世と調子を合わせることなく、神のみこころを知るために思い(原語)の一新によって自分を変えなさいとあります(ローマ十二・2)。すなわち彼らはこの世の霊によりマインドコントロールされています。まず自らの拠って立つ価値観や物の見方が御言葉に添ったものであるかどうか、自ら吟味する姿勢が必要です。もし自ら求めない場合は自分では如何ともし難い事件などによって御霊の管理の下で取り扱いを受けることでしょう。

今日あまりにも完全無欠のクリスチャンが多過ぎます。魂にまったく傷がない人は決して神によって用いられません。神の愛はその傷に染み込み、思いは御霊の照明を受け、真に神の御旨を悟るのです。自己の才能、資格、能力、手法、経済、人脈などに富んでいる人が多いのです。イエスは「貧しいものは幸いである」と言われました。あらゆる面で自分の何かが尽きてしまうことは、御霊の働く土壌が整うことなのです。自らの心の奥底を知るのは霊です(第一コリント二・11)。霊に光がもたされる時自己の真実を見ます。そのためには魂に傷が必要です。完全無欠の人は必ず神の憐れみの下で、ヤコブがヤボクの渡しでその腿の番をはずされたように、人生の暗闇にあって自己の最も強い部分に対して致命的な打撃を受け、霊的なビッコになり、杖を必要とするという幸いな経験をするでしょう(創世記三十二・23-33、ヘブル十一・21)。