ハードコア・プロファイルズ

−人間の実存的状況の病理と処方−




第6回

真理のうちに歩む@

−いのちの発見−



霊的成長の第二層(レイヤー)はキリストが十字架で成し遂げられたあらゆる霊的リアリティを具体的場面に信仰によって適用することです。繰り返しますがこの<歩みのレイヤー>は、前回までの<安息のレイヤー>の上に建て上げられる必要があります。安息から逸脱すると歩みも崩れます。

パウロはエペソ四章一節から六章九節においてクリスチャンとしての生き方を具体的に述べています。まず私たちがキリストの体として組まれ神の住まいとして建て上げられること、古い人の生き方から新しい人の生き方に転帰すること、光の子として歩むこと、夫と妻はキリストと教会のあり方を象徴すること、親と子の関係および主人と奴隷の関係についての助言と続きます。

ポイントはこの奨励を自分の力で実行するのではなく、内なるキリストがなして下さることです。クリスチャン生活は生与のいのちには無理です。ただキリストと共なる古い人の死と復活によって得た新しいいのちのみがそれを可能にします。この御霊による新しいいのちに頼らず自己努力によって生きようとするとき"クルシ(苦し)チャン"状態に落ち込みます。



一、本質的必要の満たし

(1)教会の認識−内なるいのちの本質を知る

クリスチャンという存在は単にキリストの身代わりの死によって罪許された罪人ではありません。キリストは肉体をもって復活した後、同時にいのちを与える霊(第一コリント十五・45)として私たちの内に御霊によって御臨在される存在となりました。外なる人は旧創造に属しますが、内なる人(霊)は新しい創造なのです(第二コリント五・17)。クリスチャンとは、私が生きるのではなく、キリストが生きるのです(ガラテヤ二・20)。私たちの真のアイデンティティは内に生きるキリスト御自身です(ピリピ一・21)。

教会とは「召し出された者たち」、すなわちキリストのいのちを内に宿している者たちであり、見かけは多くの肢体があっても、一人の新しい人です(エペソ二・15b)。御霊によって実体化されるキリストのいのちが私たちを結びつけるのです。それは幕屋の建て板が真ん中の一本の横棒によって貫かれて組み合わされて立てられたのと同様です(出エジプト二十六・28)。旧約時代には幕屋・神殿の至聖所に御臨在された神は、現在私たちに霊に御臨在され、ひとつに組み合わされた私たち教会にあってシェキナの栄光がとどまるのです(第二コリント三・7-11)。

私たちの霊にいますキリストのいのちが私たちの魂と体を通して生き出て下さるとき、互いの交わりにおいてそのキリストの霊に触れ、それが互いを建て上げ、ひとつに結び合わせるのです。御体のひとつの根拠はキリストのいのちです(第一コリント三・11,16,17)。


(2)新しい生き方の認識と獲得

いのちは自動的です。犬は四本足で、人は立って歩くことが自然です。いのちの違いです。この意味で"WWJD(What Would Jesus Do ?) "なるもっともらしいコピーがありますが、真理ではありません(これは元々ある企業のコマーシャル・コピーです)。これは"If I were Christ, what would I do ? (私は決してキリストではないが、もしキリストであったならば、私は何をすべきか?)"の意味です(仮定法過去)。この主語は"私"なのです。キリストでない"私"がキリストらしく生きようとするのです。これは"ふり(フェイク)"です。クリスチャンがよく偽善者だと言われる理由はこの不自然さによります。一方、これを真に受ける人はローマ七章の葛藤に陥ることでしょう(同章に何回"私"がありますか?)。しかるに真理は「もはや生きているのは私ではなく、キリストが生きている」です(ガラテヤ二・20)。現在、すでに教会はもっとらしい偽りにより相当侵食されており、多くの肢体がその偽りに束縛され葛藤しています。偽りの教えの風に吹き回されてはなりません(エペソ四・14,15)。

私たちが十字架の死にとどまって御霊に頼るとき、御霊は自動的に律法を全うして下さるのです(ローマ八・4、ピリピ三・3)。私たちの責任は御霊に頼ること、すなわち信仰であり、信仰は律法をまっとうするのです(同三・31)。内にいますキリストに頼るコツを得るならば、あらゆる領域がきわめて単純で容易になります。私がなすのではなく、キリストがなして下さるのです。律法の要求も私が満たすのではなく、キリストが満たして下さるのです。私はただ死にとどまって、御霊によってキリストがなして下さることに任せるだけです。クリスチャン生活は「私がキリストのために何をなし得たか」ではなく、「私に代わってキリストが何をなして下さったか」によって評価されるのです。「私がなしたこと」はカインの捧げ物と同じ運命をたどり、いずれ焼かれることでしょう(第一コリント三・12-15)。

未信者は愚かな、暗い思いと無知によって心の頑なさの中に生き、神のいのちから遠く離れているとパウロは言います(エペソ四・17b,18)。しかもクリスチャンであってもそのような生き方に陥る可能性があることを示唆しています(同17a)。私たちも神のいのちを見損ない、頼り損なうならば、容易に葛藤に落ち込み、未信者以上に惨めな状態に落ち込むことがあります。新しい生き方とは私にはできないことをまず知るべきです。古い人を捨てて、新しい人を着る時にはじめて可能なのです。この新しい人とはキリストご自身です(ローマ十三・14、コロサイ三・9-11)。


(3)結婚と神の臨在の奥義

私たち教会はキリストが眠りにつき、脇から流された血と水によって、復活したキリストのいのちを御霊によって吹き込まれることによって誕生しました。証しするものは血と水と御霊であり、私たちはいのちを得ています(第一ヨハネ五・6-12)。エバがアダムの眠りにあって、わき腹の骨から造られ、いのちを共有したと同様です。骨髄には造血作用があり、いのちは血の中にあるのです(レビ十七・11)。

私たちは現在キリストに嫁ぐための花嫁として整えられる過程にあります(エペソ五・26,27)。黙示録二十一章でこの宇宙のロマンスは成就します。神が私たちを召して下さったのは、単に哀れな罪人を地獄行きから救い出すためではなく、キリストのいのちを吹き込まれた新しい創造の初穂、キリストの花嫁、神に聖別された聖徒、神の祭司であり王族とするためでした(第一ペテロ二・9,10)。また私たちは神の宮・神殿であり(第一コリント三・16)、神の住まいであり(エペソ二・22)、その究極に神と人が共に住まう栄光へと召されているのです(黙示録二十一・3)。


(4)真理による歩みの本質

クリスチャン生活は神の永遠のご計画に従った私たちの召命と、神から得たものを知ることから始まります(エペソ一・3-14、コロサイ一・27)。この神の業を見損なうならば、クリスチャン生活とは単なる罪人に過ぎない私が、努めて清く・正しく・美しく、キリストらしく生きることであり、観察する自己と観察される自己に分裂した二心状態にあって、絶えず自家製の律法によって自分を自分で裁き、安息と喜びを欠いた生き方となるでしょう。実際、きわめて多くのクリスチャンがそのような"クルシチャン"の生き方に束縛されています。

そこからの解放にはまず思いの霊において新たにされる必要があります(エペソ四・23、原語)。私たちの思い(マインド)は魂の一部ですが、霊によって支配され、新たにされる必要があるのです(ローマ十二・2、原語)。新しい生き方と私たちの思いは密接に関係しています。思いを霊におくこと、霊の下に服させること、これが鍵です。肉の思いは死ですが、霊の思いはいのちと平安です(ローマ八・6、新共同訳)。

真理に歩むとは、「キリストならばどうする・こうする」ではなく、キリストが生きる・キリストがなす・キリストが代わって下さる生き方、そして安息と喜びに満ちたとても単純な生き方です(ガラテヤ二・20)。鍵は御霊によって御臨在下さる内なるキリストのいのちの絶大なパワーを知り、実体化し、経験することにあります(エペソ一・19、三・20、ピリピ三・10)。