砂上のアイデンティティ
思えば高度成長期時代は物事が単純だった。<良い大学→良い会社→業績の達成→地位の向上→収入の上昇>というセントラルドグマが、あたかも永久普遍の真理と感じられるほどに、人々の精神構造の中に定着していた。実際そのプロトコル(判断と行動のパタン)に忠実に従えば、自分の願望、自分の満足を、自分の力で満たすことができた。人々はそこに人生の希望とビジョンを置き、その実現目指して邁進していた。自己の存在意義とか自己のアイデンティティ、さらに自分はどこから来てどこへ行くのかなどの根本的問いに直面しなくとも、とりあえず自分の人生を運営できた。ある意味できわめて単純な価値観とプロトコルで事が済んだ時代だった。
アイデンティティの希薄化
ところがバブル崩壊以後、社会構造の崩壊と共に、今までのセントラルドグマが機能しなくなった。一流企業や大銀行までもが簡単に倒産し、企業はその存続を大義名分に、リストラと称して人々の生活手段を奪い、人々は互いの信頼関係の喪失により個人が孤立し、コミュニティも崩壊する中で、自分の身と心の置き処を失っている。人生のビジョンが得られず、日々の食い扶持を心配するだけの状況に陥っている。アイデンティティを担保するものが希薄となり、そのため自己の価値観や判断に自信を喪失し、ひいては人生に対する見通しを失っている。
"人の和"などの表現で明らかなとおり、もともとアイデンティティの意識すら欠如し、かろうじて人の間における相対的な位置関係によって、自己のアイデンティティや存在意義を確認してきた日本人にとって、身の置き処がなくなることはほとんど致命的である。<コミュニティの崩壊イコール自己のアイデンティティの喪失>を意味する。しかも従来型日本社会における行動規範あるいは価値基準は、コミュニティの中で自分の居場所を担保する"恥の文化"にあったが、この日本的美徳さえも自由や個性の尊重の標語のもとで崩壊している。したがって現在の日本においては「何でもあり」の観を呈している。
モラルの欠如、場当たり的政治、建前論的偽善的教育、唯一の誇りであった経済すらも萎縮という状況で、日本人は自信を失っている。そんな折り、有名作家による宗教(仏教)本がベストセラーとなり、ニューエイジ系の"ヒーリング・セミナー"とか"自己啓発セミナー"など、自己発見のノウハウものが流行する一方、その日暮しのフリーター志向の若者や、ある種のカルト的集団において一般社会が喪失した"何か"を補償する行動パタンを取る若者が増加している。また一方、その反動形式として、復古調国粋主義的価値観も着実にリバイバルしている。
日本人の特性
もともと人間とは何かを考えたり、自己のアイデンティティを確立するためには、神・自己・サタンの霊的ダイナミクスの中でなすべきであり、その究極的解答を聖書が提供しているのであるが、何故か日本人はそのようなメリハリの利いたアイデンティティよりは、「主客渾然一体の境涯を得る」ことを志向する仏教的、あるいは「何者がおわすは知らねども、ありがたきに涙こぼるる」の神道的な曖昧さを好むようである。
しかし創造者を知らずして、自己を見い出だすことなどは不可能というべきである。日本人は神の前で単独者として立つことに耐え得ない脆弱な自我を有している。クリスチャンと言えども、この弱点のために、欧米の"○○リバイバル"や"□□ブレッシング"を流行歌手のオッカケのごとくに無批判に追従するだけの霊的レベルに留まる者が多い。
岩の上のアイデンティティ
結局人は、自分が信じた通りに発言し、行動するものである。クリスチャンにとってもそのアイデンティティをいかに確立するかはきわめて本質的である。「自分は○○教団の教職/信徒である」ではなく、第一義的に「自分はイエスの血によって買い取られ、神の子とされた存在である」また「キリストの体(=教会)にバプテスマされた一肢体である」が本質である。前者は御父との愛といのちにおける父子関係に置かれた存在、また後者は頭なる御子との愛といのちの交わりに置かれた存在を意味する。このレベルの霊的アイデンティティを確立し、そこに真の安息を得ていれば、いわゆる教職信徒間、福音派・聖霊派、さらに教団教派間の葛藤などは生じるべくもない。
一般に人は自己のアイデンティティを否定されることを恐れ、いかなる手段によってもそれを守ろうとする。これらの葛藤はみなこの精神病理によるものであるが、結局このように自己防衛をせざるを得ない根本は、アイデンティティの確立のあり方が間違っているからである。しかるにキリストにある私たちのアイデンティティは誰も否定したり、崩したりし得ない確固たる岩の上のそれである。現在の混迷の時代であるからこそ、むしろこの機会をとらえて、社会においても、教会においても今一度自らのアイデンティティのあり方と、その担保を何に置いているかを再検討すべき好機であると考える。