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■本稿は「徒然なるままに」に一部加筆修正したものです。
■聖書的言語JAVA
最近流行のプログラム言語にJAVA言語があります。インターネットと相性がよくて、よくホームページでアニメなどの動きがあったり、ゲームができるのはこの言語によるのです。JAVA言語はC言語を発展させて構造化を徹底させたいわゆるオブジェクト指向言語です。この言語の考え方が何だかとても聖書的なのです。
JAVAでプログラムを書くときには用意されたライブラリー中のクラスファイルを利用します。例えばウインドウを開くなど、誰もが共通に使う部分をその用途ごとにクラス分けして、ちょうど半オーダーメイドの洋服の型紙みたいなものが用意されているわけです。この型紙にオリジナルな機能を付け加えて自分の目的にあったプログラムを書くわけです。このクラス(ひな型)に自分の機能を付け加えることを継承と言います。しかしクラスだけではまだプログラムではなく、これを実体化してインスタンス(実際に実行できるプログラム)ができるのです。
■クラスの実体化
私たちは最初の人アダムにあって誕生しました(第一コリント十五・22)。私たちが継承した罪(Sin)はひとりのアダムの違反によって全人類に入り込んだのです(ローマ五・12)。このアダムの罪(Sin)はいわばクラス(ひな型)であり(同14節)、これが私たちに継承され(同18節)、私の内で実体化されるときインスタンスとして個々の罪の行為(sins)が生まれます(ローマ七・15)。
神の目から見てアダムの腰の中にいた私たちも、アダムが罪を犯したとき罪を犯したのです。神の目においてはアダムはすべてを含んでいたのであり、アダムの罪はその後の全人類の罪のいわばクラス(型紙)なのです(「包括の原理」:ヘブル七・5-10参照)。すなわち問題は私たちがすでにアダムのクラスに含まれていることであり、私たちのあらゆる罪(sins)はその実体化なのです。
■クラスの入れ替え
そこで神の救いはアダムにある私たちをまず終わらせることから始まります(ローマ六・6)。つまりアダム・クラスを削除し、私たちを第二の人であるキリスト・クラスに復活させるわけです(同六・4-5)。こうして死と復活をとおして、私たちのクラス(系列)の入れ替えがなされます。このときキリストにある私たちには神の義が継承されるのです(同三・22,26)。救いは誕生のクラスの問題なのです。
ひとりの違反により全人類が罪人になったように、ひとりの義の行為により私たちは義とされるのです(ローマ五・12-19)。これを「同一視(化)の原理」あるいは「包括の原理」と言います。神の目から見て、信じる私たちはキリスト・クラスに属しており、キリスト・タイプ(型)の義が私たちの人生において具体的な形で義の行為として実体化されるのです。信仰はすでに得ているクラス(霊的事実・真理)を実体化することです(ヘブル十一・1:Darby訳)。アダムのクラスに属する人が努力してなすことではありません。
■的を射る
神の国に入ることは、自分の属するクラスが何か、つまり誕生の問題なのです(ヨハネ三・5,6)。今日の人間視点(ヒューマニズム)の「福音」が蔓延している風潮に対して、救いは死から始まることを私は繰り返し訴えています(=ファクターX)。私たちの真のアイデンティティが何なのか、これを知ることがクリスチャン生活の質と実を決定します。救いとは誕生系列の入れ替え―しかもそれを神はすでになして下さっているのです!―このことを真に見れば自己のもがき、クルシチャン(苦しちゃん)状態からただちに解放され、的外れの歩みや空を打つ拳闘はしなくなるでしょう(第一コリント九・26)。信仰とJAVA言語―面白いと思いませんか?