霊的アイデンティティの確立L

―この岩の上に建てよ―
「あなたこそ、神の子キリストです。」「この岩の上に、わたしは教会を建てよう」

「この岩」とはもちろんペテロではありません
深まる混迷

いよいよ米国の対イラク作戦が始まった。裏にはネオコンによる石油利権などをめぐっての陰謀(この単語を嫌うならば、思惑)があろうが、もっと本質的には相互のアイデンティティの否定がある。九三年にハーバードのハンチントン教授が予想したとおり「文明の衝突」の様相を呈しており、これはイエスの「民族は民族に敵対する」という預言の成就でもある。相手に対する生理的な嫌悪感によるので、対話などは決して成立しないし、正当性の理由付けも今回のように若干カルトがかったものとなる。


アイデンティティの防衛

国家はもとより、個人も自分のアイデンティティの領域が侵食される時、必死の防戦を試みる。アイデンティティの確立はもっとも根本的な人の必要である。クリスチャンであってもその置き処を間違うと今回の米国のような反応をするケースが生じる。

教界においては、いわゆる献身なども単なる信徒以上の立場を得ることによってアイデンティティを確立しようとする試みである場合がみられる。そこで特にニッポンキリスト教では水平方向の「信徒の交わり」(使徒二・42)ではなく、「教職対信徒」の垂直方向の関係となり、これが霊的権威の系統と同一視されるために深刻な葛藤が生じる。


アイデンティティの二面性

神の選びや御霊の満たし、さらに預言などの賜物には本質的な面と機能的(経綸的)な面があることをこれまで度々指摘してきた。アイデンティティも同じである。私たちは本質的なアイデンティティとしてキリストのいのちを息吹き込まれ、イエスと御父を共有する者として神の子である特権を持つ。この面の嗣業を堪能し満足する者にとって、機能的なアイデンティティである四役(使徒・預言者・伝道者・牧者/教える者)は文字通り本質ではない。

実は本質的アイデンティティを十分に確立し、その嗣業を享受した者にキリストは機能的なアイデンティティを付託される(エペソ四・11)。いわゆる教職免許(?)を取得する手続きは、キリストご自身による任職のための必要条件でも十分条件でもない。しばしば霊性と離れて、機能的アイデンティティに基づいて教会を運営しようとするため、マニュピレーションによるカルト化の芽が潜んでいる。これは脆弱な本質面を補償するために機能面(職制)を主張するからである。かくして「牧師先生」が大量生産される。


他人のふんどしで相撲を取る

クリスチャンはひとえにキリストの死と復活に同一視(包括)されて、彼の経験や所有をタダで得た存在である。これは包括の原理(ヘブル七・9,10)による。例えば敵に対する勝利も自分で得るのではなく、キリストの得た勝利にとどまるだけである。自分でするならば、絶えず不安に直面しつつ、果てしない「モグラ叩き」の様相を呈し疲弊するだろう。

自己ではなくキリスト、すべてキリストの成果と所有を得ること―これこそがキリストに包括された私たちの特権である。すでに得た、すでに癒された、すでに勝利した、すでに完成された―この中に真に安息し、これを享受するならば、今日のニッポンキリスト教で見られる幼稚な問題はただちにクリアされるだろう。逆にそこから逸脱するならば、今後ますます霊的な「米国対イラク」の様相が展開するであろう。


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