霊的アイデンティティの確立N −実体と影− |
|
■対立の構図 教界においてしばしば対立がある−<福音派vs聖霊派>、<前艱難携挙説vs艱難後期携挙説>、<プレミレvsポストミレ>、<デスペンセイション主義vs再建主義>、<親ユダヤvs反ユダヤ>、<親天皇vs反天皇>、<キリスト教右翼vsキリスト教左翼>・・・・。 そもそも対立は同じ平面上にて生じる。喩えると、三次元のラセンを平面上に軸方向から投影すると円、軸に垂直方向からだと正弦曲線になるように、聖書は神の高次元の霊的リアリティを人間の言葉の次元に投影したものであり、その角度によって異なって見える。物理的実在ですら、例えば電子は波動でもあり粒子でもあるというように、人間の認識空間に投影すると矛盾する描像を呈する。 かくして私たちはしばしば高次元のリアリティそのものではなく、投影された低次元の像を見て議論に陥る(コロサイ二・17、ヘブル十・1)。 ■その精神病理 いわゆる「熱くなる」精神状態は自己(Self)と密接に関係している。人は自分が入れ込んだもの、そしてその上に自らのアイデンティティを置いたものを否定される時、抑え難い情緒的反応を呈する。「誤り」を指摘して相手の説を論駁し、「正しさ」を論証して自説を通そうとすることは、実は魂の自己主張と自己保存欲求の現れである。善悪の知識の木の実を食べて魂を肥大化した人類の宿命である。 例えば右翼も左翼もその精神病理を見る時に本質は同じであり、「表現」が異なるに過ぎない。その根底には裏切られた甘えが存在し、しばしば右翼はこれを情念的観念化によって、左翼は知性的合理化によって代償的に満たす試みである。表向きの「政治思想」は決して本質ではない。よってしばしば右から左へ、左から右へと転向する者もおり、その場合先のものを徹底的に否定する。「現在の自己」を担保するためである。 ■善悪vsいのち またしばしば<恵みvs律法>の対立の構図が論じられるが、この両者は決して対立するものではない。なぜなら平面が異なっている。もっと正確に言えば、いのちによって恵みが支配するとき律法は吸収されてしまう(ローマ五・21)。私たちは信仰によって律法を確立するのである(ローマ三・31)。 すなわち、何にせよ対立する議論に陥る時には両者とも善悪の平面上にいるのであり、いのちの次元から落ちている。真理にとっては「正しさ」は決して本質的な測り縄ではない。神の道はいのちの道であり、測り縄はキリストの平安である(コロサイ三・15)。正しくても平安を喪失すれば敗北であり、不当に扱われても平安があれば勝利である。 ■リアリティにタッチする 私たちのアイデンティティの置き所はただ究極の霊的リアリティであるキリストである。これはいのちの次元にあり、このバナーは「ひとつ」である(ヨハネ十七・23)。私たちが自己の何かにアイデンティティを置けば果てしない議論の応酬であるが、キリストにおけばそれは「人ごと」であり、しかも誰も否定し得ない真理であるからあえて口角泡を飛ばす必要はない。 私たちはすでにキリストと共に死んで復活し(ローマ六・8)、アダム系列からキリスト系列に移され(第一コリント十五・22)、キリストと共に天のところに座している(エペソ二・6)。私たちは敵を下に見る存在であって、敵とは戦うまでもなくすでに勝利している。しかしキリストからさ迷い出て彼らと同じ平面に降りればあっさりと倒される。鍵はすでに勝利したキリストと同じ次元に留まることである(ヨハネ十五・5)。 次元が上がるごとに霊的視界は開け、物事に処するのも楽になる。「自己ではなくキリスト」−究極のリアリティであるキリストをエンジョイし、キリストにすべてをなしていただける。かくして私どものKFCでは"WWJD"ではなく、"LJDO-Let Jesus DO!"を標語としている。 |