本稿は私の数種のペルソナの一つである精神病理学の学徒としての立場で書く。この面での私は隠れた心の動きを観察・分析する習性があり、愛がない、冷たい、裁いているとのお叱りをしばしば受けるが、今回もそのような反応を重々承知の上であえて一考を提する。
諸問題の要因
1)嫉妬:キリスト教会の中に起きる諸問題の原因の一つが嫉妬である。古のカインによるアベルの殺人、兄たちによるヨセフの追放、ダビデをつけ狙ったサウルの偏執性、そして今日のキリスト教会におけるゴシップや噂、分裂とか決裂、これらの背後の要因はほとんどが嫉妬の病理による。
キリスト者はこの世の栄華などは捨てても、キリスト教会における成功や評判については敏感である。率直に言えば、いわゆる教職にある方々の間でしばしば顕著である。″聖く・正しく・清貧に″を外的にも内的にも要求される立場上そのような葛藤が生じ易いが、その種が実は自らのうちにあることを認めざるを得ない。嫉妬はキリストの体に大きな損傷を与える。
2)異性関係:第二の問題は異性問題である。特にカウンセリングや癒しの場面で頻繁に起きており、性質上ほとんどが闇から闇である。人は、「かくあるべし」と努めるほどにはずれてしまうのが、心の法則である。よって″聖・正・貧″を自力で実現しようとし、かえって取り繕いに陥る。こうして内なる真実と外なるあり方が乖離する(乖離性)。教職なる立場はこのような誘惑にもろに曝される。ダビデをはじめ男はこの領域において特にもろいことを認める必要がある。
3)パラノイド:第三の問題は評判を気にかけることが病的に発展し、絶えず他者の目を気にするパラノイド状態を呈する。この時、しばしば他の教会や交わりからの信徒の隔離がなされ彼らが外で語ること、また一方において内部から自分の立場を脅かす(と感じられる)勢力の台頭を極度に恐れるようになる。
その病理と解放の道
以上の病理は一面強力な魂のエネルギーに満ちた肥大した自己のあり方と、一面で脆弱な自己のアイデンティティのあり方のジレンマに基づく。専門用語でアンビヴァレンツ(両義性)な状態と言う。自我の分裂による平安と安息の欠如に基づく、一種のアイデンティティの危機的場面における自己防衛反応(取り繕い)である。優越感と劣等感の間を振り子のように揺れるのである。
この問題はキリストと共なる死と復活による新しい私を明確に確立しているならば、比較的容易にクリアできる(ローマ六・3−5)。処方箋は聖潔を追及することではなく(これはかえって葛藤を深める)、キリストにある霊的アイデンティティの確立が本質である。逆に自分にあって、教職としての能力・集客力・達成・評価などが自分のアイデンティティとして組み込まれる時、これらの問題がますます顕在化する。
キリストにある真のアイデンティティを確立し、キリストにあって得た神の嗣業を享受し、キリストとの内なる甘い交わりに留まるならば、他の属性に対する関心は薄れ行く。様々な外的属性への疼きや渇きは、キリストの愛から離れる時、キリストにある満足を失い平安と安息から逸脱する時に生じる。反対に、内側が油で塗られ甘く満たされるとき、それを損なう他のあらゆるものから遠ざかることを願うようになる。愛の貧困な、誘惑に屈し易い私は、ただキリストにとどまり、その甘い愛で充たされ続けることを願うものである。