霊的アイデンティティの確立F

−霊的交換力による御体のひとつの実現−



キリストの体なる教会のひとつ(oneness;"一致"という用語はあえて避ける)が重要であることは言うまでもないが、現状を見るならばある種の失望感を覚えるのが正直な感想であろう。人間的営みによる教団・教派や信条・解釈・実行などに根拠を置くならば、教会のひとつは永遠に実現し得ないことはすでに歴史が証明している。実は教会のひとつも私たちのアイデンティティの確立と密接に関係している。


交換力と場の理論

物理現象において、原子核と電子は光子を交換し共有することによって電気的結合力を得て原子を構成し、中性子と陽子が中間子を交換し共有することによって核力を生じ原子核を構成する。これらの結合力は素粒子の共有・交換による交換力と呼び、この力の発生する領域を場と言う。


教会−キリストのいのちの共有体

御霊の満たしについては、本質的な内的いのちの満たしの面と、機能的な外的な力の満たしの面があることをすでに指摘した。アダムとエバがいのちを共有してひとつになったように(創世記二・24)、教会(エクレシア)とキリストは霊的いのちを共有してひとつとされた(エペソ五・32)。御子イエスと結ばれた者は御子のうちにあるいのちを持っている(第一ヨハネ五・11)。

私たちの交わりとは御父と御子との交わりであり(同一・3b)、その光の中を歩むときに互いの交わりが成立する(同一・7)。私たちはキリストのいのちを得たことにより、彼とひとつにされ、互いの交わりもうちにいますキリストのいのちを共有することによる。私たちの霊的結合とは、内にいますキリストのいのちが感応し合い、キリストのいのちを解放し、キリストを交換することによって生じる霊的交換力による。


諸問題のルーツ−いのちの枯渇

教会の中で問題が生じる時、見かけ上様々な要因があろう。しかし最も本質的な要因は互いの間で交換し合えるキリストのいのちの枯渇である。内なるキリストのいのちの満たしが欠乏するとき、個人として霊的に貧しくなるばかりではなく、互いの交わりも貧困になる。こうして教会が霊的に枯れてしまうと、互いを結びつける霊的交換力も消失し、交わりもばらけてしまう。

この時にいわゆる人為的な大義名文により、作為的な"一致"を演出することが行われる。解釈、教義、実行などのきわめて人間臭い要素を"一致"のための旗印に掲げるのである。しかしこれはむしろ互いの交わりを損傷する。それは所詮人間的な人工物(フェイク)に過ぎないからである。


ファクターXの必要性

私の著書『真理はあなたを自由にする』において、私たちのアイデンティティの確立にとってファクターXが本質であることを指摘した。教会のひとつの実現もファクターXにある。実はひとつはすでに十字架で成就していることであり、私たちが頑張って作り出すものではなく、ただファクターXにあって維持するだけでよい。端的に言ってファクターXとは自己の死の適用である。つまり人が何もしない時、実はひとつが実現するのである。

自己のいのちが死に留まる時、内にいますキリストのいのちを互いに育て、解放し、それが豊かであればあるほど、その霊的交換力によって交わりも強固にかつ豊かにされ、御体のひとつが実体化される。それは平安と安息が満ちる霊的な場において、キリストという霊的素粒子を共有し、交換することによって生じる霊的交換力によるのである(エペソ一・23)。

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