Q3. 油注ぎと油塗りについて
Dr.ルークは書き物とかメッセージで「油注ぎ」と言わず、「油塗り」と言っていますが、何か意味があるのですか。またそれらの違いがあるのですか。
A3. Dr.Lukeによる回答
【注意】
ここでは質問者とのやりとりの中で継ぎ接ぎで書いていますので、かなり分かりにくくなっています。
こちらに論点を整理してまとめておきました。
これは最近私もニッポンキリスト教と関わるようになって、はじめて人から指摘されて問題意識を持つようになったのですが、ふつう英語の"Anoint"に対してニッポンキリスト教ではすべて「油注ぎ」と言われるようですね。
例えばレビ記14章を読んでいただくと分かりますが、らい病の癒しには油を注がれた祭司が、患者の体に血(=イエスの血の予型)を塗り、その後油(=聖霊の予型)を塗って いますね。
「注ぐ」ことと、「塗る」こと、二つの意味は霊的に大いに異なります。
1.油注ぎはすでになされています。「キリスト」とは"The Anointed One"、つまり「油注がれた者」の意味であり、彼にこそ神の油はすでに 注がれているのです(ルカ4:18)。油注ぎはこれから求めるものではなく、すでに 成し遂げられた事実です。私たちのうちにはキリストからの塗り油(原語)がとどまっています(1ヨハネ2:27、6.を参照のこと)。
2.私たちは御霊によってキリストの体にバプテスマされた存在です(1コリント12:13)。私たちはキリストの体の一部であり、キリストは私たちの頭であり、その頭にはすでに油が注がれているのです。この頭なるキリストに注がれた油が私たち体にも垂れてくるのであって、手や足が頭から独立して油注ぎを受けることはあり得ません(詩篇133編)。
見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。それは頭の上にそそがれた とうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。
3.現在の聖霊派における「油注ぎ」を求める姿勢は何と言うか自分勝手な感じがしており、あたかも手や足が頭から切り離されて「油注ぎ」を求めているかのような状況を呈しています。私たちは体の一部であることを知り、頭の権威に服し、そこに安息する時に、すでに注がれている油が自然と垂れてくるのです。その油が私たちの内(pleroo)にも外(pletho)にも垂れるのです。だれでも その油に与ることができます(聖霊の注ぎの多い人と少ない人などはない!聖霊は一人のパースン ですから、分けられません)。
4.以上のような理由により、私は"anointing"に対してすべて「油注ぎ」とは言わず、「油塗り」を用いております。主観的経験でも内なる渇いた、ささくれ立った、傷ついた領域に油が塗られるという感覚です。ドモホルンリンクルのように、栄養分に富んだキリストの油を、塗って、塗って、塗って、塗って・・・いただくわけです。油が塗られる時、内は甘く潤され、平安と安息、伸び広がったいのちの感覚、そして湧き上がる力で満たされます。キリストの愛が押し迫ってくるのが実感されるのです。もちろんペテンテコステの力の約束である御霊の外的満たし(pletho: これが私の定義する「注ぎ」ですが)も現在でもあります。私自身聖霊のバプテスマを受けていますから。
5.油注ぎは何かの職の任命や証のためであり(機能的)、油塗りは内なる神との交わりを意味します(本質的)。聖霊と人間の関わりは旧約と新約では本質的に異なっており、旧約では聖霊は人の上に(upon)臨んだのみで、内においていのちとなることはありませんでした。しかし新約では人の内に(in)に住まわれ、私たちのいのちとなって下さるのです。この辺りは新著で十分に解説したいと思っています。
6.ちなみに1ヨハネ2:27「注ぎの油が」とあるのは邦訳の意訳です。英訳ではすべて「キリストから受けた油」であり、Darby訳はもろに"unction(塗り油)"を用いています。この油は聖霊のバプテスマのことを意味するのではなく、霊の再生されたクリスチャンのうちにいのちとして本質的に内住する御霊のことを意味します(NetBibleなど)。実際英訳では"abiding(住んでいる)"となっています。「注ぎ」と「塗る」の違いはクリスチャンの霊的経験にとってきわめて重要です。クリスチャンであれば誰でもこの油の内住を得ているのです。また邦訳でも永井訳は「また汝らは彼より受けたる膏(あぶら)、汝らのうちに居れば」として正確です。「膏(あぶら)」はまさに塗るものです。
7.私が問題視するのは、この内的にすでにある塗り油を忘れて、あるいは知らずに、外の満たし(いわゆる「油注ぎ」)を求める姿勢です。こうして聖会めぐりをし、いわゆる賜物ある器を追っかけ、按手を求め、個人預言を求め・・・と果てしない追求に陥るのです。まず内的な塗り油とその油塗りを知り、それに服し、その油のルーツであるキリスト(油注がれた・油塗られた者)のうちにとどまるとき、私たちはキリストの来臨のとき恥じることがないのです(1ヨハネ2:28)。「聖霊様、聖霊様」としてイエスと御霊を分離していわゆる「油注ぎ」を求め、賜物を得て、悪霊を追い出し、預言をし、しるし不思議をなしても、主から「あなたを知らない」と言われることもあるのです(マタイ7:22,23)。彼ら(クリスチャンです!)は報酬としての御国をミスするのです。
■Dr.ルークの独り言:
どうも私にとって常識であることがニッポンキリスト教ではそうではなく、逆もまたしかりであることに、最近ちょくちょく直面するようになりました。一種のカルチャーショックを経験しています(汗)。実は私にとってニッポンキリスト教には七不思議があるんですね・・・・。こっそりのぞいてくださいね。