光への導き


矢原 宏美 (Hiromi Yahara)

■女史は現在主婦。私のHPの掲示板に書き込んで下さった証しが素晴らしかったので、改めてこちらに書いて下さるようにお願いしたものです。



1.幼児期からの虐待

私のイエスさまとの出会いについて、証をする為には両親の仕打ちについて話さざるを得ない。私が子供として可愛がられたのは、やっと言葉を話せるようになった頃までだろう。特に母親の折檻は酷くて、布団たたきの棒でいつも体中に痣が出きるほど殴られたり、髪の毛を掴んで引きずりまわされたり魔法瓶の中の熱湯を浴びせられたりした。小学校にあがる頃には、父親の暴力が加わり家には居場所が無かった。常に両親から役立たずの馬鹿呼ばわりされていた。学校では鼻の横の火傷の跡(恐らく煙草の火を押し付けられた)など私をからかったりする子は少なくなかったが、それでも親の仕打ちに比べれば学校は居心地の良い場所だった。小学校の頃からいつも自殺したいと言う思いが心の中に渦巻いていた。両親、共働きで学校から帰っても親がいないのでよく、冷蔵庫の取っ手に手拭いを掛けて、苦しくなるまで首を吊った。毎日それを続ければいつかは死ねると信じていた。中学生になり、そんな方法では人間が死ねないことを悟り、電車に飛び込むか高い建物から飛び降りるか、血管に空気を入れてみようかなどと、相変わらず自殺への思いが常に頭の中にあった。


2.日米交換留学

高校に上がり、両親の矛先は私の3歳下の妹に向けられた。すでに私は両親の前で違う自分を演じるずるい子になっていた。高1の夏、学校の掲示板に貼られた日米交換留学生募集のポスターを見て、私は親から逃げたい一心で、応募する旨両親に相談した。両親はいずれも親戚への自慢の種になるからと承諾した。翌年7月、日本の高校を1年休学してアメリカ・ミシガン州の小さな町へホームステイ留学生として現地の普通高校のSENIOR(高3)に編入した。

親と離れても少しもホームシックなどにはならなかった。幸い私は耳がよく、元から英語が得意だったので、アメリカの高校にもすぐ馴染み成績もHONOR ROLLに名を連ねることが出来た。両親に宛てて、ホストファミリーや現地の高校で楽しく暮らしている由、手紙を出した。そうしたら、すぐ父から国際電話が来て「楽しんでなんかいないで、日本の大学受験の勉強をしていろ!」と凄い剣幕で怒られた。私は離れていても親にリモートコントロールされているのかと思うと、もう2度と日本に帰りたくない、親の顔を見たくない、アメリカにいるうちに自殺を決行しなければならないと真剣に考え始めた。カナダとの国境で厳寒の町、10月には湖の表面は氷に覆われる・・・その中へ飛び込もうと決めた。

ある日の登校スクールバスで、偶然となりに腰掛けた男の子から声をかけられた。「きょうの夕方、高校生数人が集まってバイブルスタディーをするんだけど、良かったら参加してみない?」・・・・・・・私は一瞬答えに戸惑った。なぜなら日本語でも聖書なんて見たことも無かったし、イエスキリストの名は知っていてもギリシャ・ローマ神話の登場人物の一人くらいとしか知識が無かったからである。ましてや、多感な年頃で異性に誘われると言う事にも戸惑った。でも私は「では、行きます」と答えていた。放課後、家に帰ってホストファミリーにその話しをして外出許可と車で送ってもらえるか尋ねた。ホストファミリーは全く宗教に無縁の生活をしていて、私に「そんな所へ行っても思想を押し付けられるだけだよ」と半ば呆れ顔だったが集合場所まで送ってくれた。そこには男女合わせて7〜8名ほど居てすべて知らない子ばかりだった。その内の一人の女の子が幼い頃パパからプレゼントされたという、リビングバイブルを私に譲ってくれた。


3.イエス様との出会い

その晩の研究個所はガラテヤ人への手紙だった。リビングバイブルと言っても英語で書かれている。一人一句ずつ音読をして読んでいったが、私にはとても理解できなかった。何度目かの私の順番になった。ガラテヤ人への手紙2:20である。その中のフレーズの・・・・but Christ lives in me・・・・キリストが私のうちに生きておられる・・・この言葉一つが砂漠のように乾いていた私の心の内にいのちの水をこんこんと溢れさせてくれるのを感じた。

もう、周囲の学生の声は耳に届かなかった。その瞬間からしばらく暖かく白いもやのような至福感に満たされ、もっとイエスさまについて知りたいと心から思った。丸く円座していた学生らに両手を握られた。手をつないで一つの円になってお祈りが始まった。みんな、口々に今晩ヒロミがここに来ることが出来たことを主イエスさまに感謝しますと言った。とても嬉しかった。

家に帰り、私は速達で母に日本語の聖書を送ってくれるよう手紙を出した。母はその手紙を受け取るとその足で書店をいくつか見て1冊選び、再びその足で郵便局へ行って国際郵便の速達で送ってくれたのである。それからバイブルスタディはますますよくわかるようになり、1年があっという間に過ぎ帰国の日が来た。


4.虐待の日々再び

帰国してから、やはり両親の暴力や言葉の虐待は変わらなかった。私はまた自殺を考え始めるようになった。日本の高校に復学してしばらくして知らない女生徒から声をかけられた。「1年休学して、アメリカに行って2学期から復学した人でしょ。私ね、教会に行ってるので、良かったら一緒に行きましょう」またしてもイエスさまからのアプローチであった。私はそれから彼女と一緒に日本キリスト教団霊南坂教会へ通い始めた。そして1983年のクリスマスに洗礼を受けた。妹も一緒に連れて行くようにして、聖書をプレゼントした。


5.就職後

短期大学を卒業後、KDDに入社して配属が那覇になり必然的に親元を離れた。教籍は霊南坂教会に残したまま、私は沖縄、大阪、広島、栃木と命ぜられるまま転勤族だった。その間、私は毎週教会へ足を運ぶことは無かったが、悩みが持ち上がり主に導きを求めて祈ると、その答えは聖書の中に示されたり、呼ばれている気がしてその地の教会へ足を運ぶと牧師先生の説教の中に示されたりした。28歳くらいになると、同窓生の結婚や出産を知らせる葉書がたくさん届くようになり、私は焦りを感じた。虐待のために、他人を信頼したり愛したりできない、精神的にかたわなのかとても悩んだ。しかし、私の人生は私のものではなく、天の国が来るために主が用いるものだと考え、私は主に用いて頂ける器となるべく、主のご計画と導きを祈り求めた。


6.結 婚

平成8年4月7日、奇しくもイースターサンデーに私は一人の男性と食事に出かける約束をした。キリストの復活の日、私の心の中に人を愛するという気持ちが初めてわかった。主イエスはご自身の記念の日を選んで私にわかるように、伴侶となるべき人を示してくださったのである。翌月5月1日に私たちは主に感謝しながら、入籍手続きをした。結婚指輪の内側にLOVE JESUSと彫ってもらった。


7.結 び

今から思えば、バイブルスタディに参加のYESと言ったことが、主イエスに対してYes I believe in youと言ったことになったのであろう。もう、私が道を反れそうになっても主が私を見返り、立ち止まり、光へと導いてくださる。私も主の光が無ければ歩んでいくことができない。罪のくびきは主が負ってくださった。いま私にある苦しみは、決して重荷ではない。私は毎週、決まった教会へ赴いて礼拝を守ることはしていないが、裁きの日に主イエスさまから「あなたはわたしが乾いている時に飲ませ、飢えているときに食べさせ、牢に居るときに見舞ってくれた。・・・もっとも小さな者にしたのはわたしにしたのである」と言って頂けるよう心がけて生活している。

つたない文章の証ですが、用いて頂けたら幸いに存じます。主イエスキリストの御光が普く世を照らす日が早く来ることを祈っております。アーメン


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