愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。異邦人の中にあって、りっぱに振舞いなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。人の立てたすべての制度に主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。というのは、善を行なって、愚かな人々の口を封じることは、神のみこころだからです。あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。すべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい(ペトロの手紙一.2:11-17)
どんな状況であっても、主は必ず私たちを愛してくださっている。だからこそ、主のために従うことができる。また、現在通っている教会の牧師様から大変な思いを今までされてきたけれど、神様がおられたからこそ、肩肘はらず、つっぱらず、ありのままの自分でいられるようになったことを聞かされました。それを聞いたとき、私も生まれて初めてありのままの自分でいいのだと思うことができました。なぜなら、神様が私たちを愛し、そこにいてくださることに気付いたからです。そう思った瞬間、暖かな何かに包まれているような気持ちになり、感謝で涙が止まらなくなったのです。辛かったことも、苦しかったことも、すべて神様の導きであると考えれば、何を苦しむことがあったのでしょうか。
それ以来、聖書の言葉は私の心を打ち続けます。以前の私とは違うと認識させられるのです。なんて優しく暖かいのだろう。「ありのままでいなさい」という言葉のありがたさ。
最近では毎日聖書を読み、神様のことを考える毎日になりました
これには自分自身が一番びっくりしています。私は基本的には無宗教でしたが、私自身の神様(私の神様)は今までも心の中にずっと存在していました。それがキリスト教の神様だったらと、視点を変えてみることにしました。実際のところ、あんまり大きな違和感はありません。驚くほど、すんなりと入ってきたのです。すべてが神様の意志に基づき、神様に守られていると考えることにより、なんて楽になることでしょう!
今までは神様に依存することは弱い自分だと認めることだと思っていたみたいです。自分で何もかも乗り越え、切り開かなければいけないと思いこんでいました。でも、それで、私が神様を受け入れようとするとき、「いいの?神様にゆだねていいの?それってずるくない?」っていうのがあったんです。自己責任を神様に転嫁しているようで・・・でも、そもそもの考え方が違ったようです。
すべてが神様の手の内と考えれば、じたばたとすることもないと思えるようになってきています。よく神様は足下を照らすランプのようと例えられます。今までの私はたった一人で、真っ暗な道なき道を手探りで進み、時には障害物にぶつかり、時には大木を切り倒しながら進んでいっていたようです。孤独で不安で恐ろしい・・・。
でも、今はたとえ真っ暗な道であっても、神様がすべて指し示してくださるような気がしています。かつてはマイナスの感情しかもってもらえなかった彼と神様の話や聖書の話をする毎日です。ただ、やはり彼の母親は私と彼が接触することが大反対で、電話をすることさえ許しません。彼自身も私のことを友人のひとりだと思っていることでしょう。そんなことを考えるとき、神様のことを思ってしまいます。
また、私が確信していることがあります
私の魂は地上においては、もともと彼の魂と一体になるためにあること。知り合ってから、どんな形になるにせよ、お互い9年間も心の中に深く存在していたから。私たちが和解という道に導いてくださったのは、紛れもなく神様であること。
この夏に福岡へ行った際、最後の日に三女の父親と会いました。長いドライブの後、深刻な話をしました。「もしも引っ越しとか、いろいろ環境が変わったら、博美さんはどうとらえる?」と聞かれました。私は「引っ越しなら、全然問題ないけれど、たとえば結婚したら、私は耐えられないかもしれない」と言いました。
彼は「なんで?喜んでくれないの?」と何の疑問もなく尋ねます。今だに彼を想っていることを知られていない私は「とてもむずかしい」としか答えられませんでした。私は決して彼の不幸を願うのではなく、それどころかむしろ彼の心が穏やかで幸せになってほしいと思っています。ただ、大きな心の葛藤があったのです。
その後、彼と喫茶店で話していると、彼は突然聖書を取り出しました。「輪読しようと思って・・・7年前にできなかったから」そこで彼が選んだのは「コリントの信徒への手紙一13章:愛の章」でした。輪読をしながら私は声が震え、動悸が激しくなりました。あまりの言葉の重さに怖れを抱いたのです。彼は私が彼の幸せを願えないことを知ったので、あえてそこを選び、私に自分のいたらなさを自覚させようとしているんだと疑い、自分の未熟さを自覚したからです。
しかし、実際、彼はその日に私と会う前に選んだらしく、私とのやりとりは無関係だということがわかりました。彼はどうして自分がそこを選んだのかわからないと言います。おそらく、お互いに不足している部分を気付かせるために、神様が導いてくださったとしか思えません。私も彼もその日にそのフレーズを読んだことは一生忘れないことでしょう。
それからお互いに「コリントの信徒への手紙一13章:愛」を暗唱できるようにすることを約束し、別れました。「コリントの信徒への手紙一13.愛」は有名な言葉だそうですね。あとから知りました。どれほど深い言葉や導きがこの部分に埋め込まれているのでしょう。まるで、聖書に書かれている言葉に魂があるかのように、いつも私の心に訴えます。
私には忍耐することもたくさんあり、自分の辛さを忍んで、人の幸せを心から喜ぶことはできないでいます。まだまだ未熟なのです。けれど、いつも聖書は私を勇気づけ、読むたびに心に訴えかける言葉に気付かされます。いつの日か、いつでもどんな辛いことがあっても、心穏やかに神様に向かえる日がくることを願っています。
今は神様が近くに感じられるようになりました
いろいろと書きました。長くなってごめんなさい。ただ、いかに悪かった関係から今、神様を通じて、近くに感じられることを書きたかったのです。まだまだ私は聖書の解釈を誤解し、自分勝手な解釈をしているかもしれません。でも、毎日毎日聖書に触れるにつけ、救われる言葉に出会います。先のことを考えることは怖ろしくてできません。そんなとき、辛いことがあっても、今は耐えようという気持ちで、毎日祈りを捧げています。
今は心から私を傷つけた人々の心に平穏が訪れることを心から願うのです。彼の母親から受けた辛い事実は忘れることができませんが、それも彼の母親が息子の幸せを思うゆえ、息子を守りたいゆえであることも理解できます。人生に「もしも」「・・・だったならば」はありません。だから、私はこれからも後ろを振り返らず、すべてを受け入れて生きて行こう!神様の御心に従って、導かれて、生きたいと願っています。どんな環境で生まれても、私の三女はたくさんの人から「みんなを幸せにする天使の笑顔を持っている女の子」だと言われています。これも、神様の御心だと感謝しています。
これからもあなたのHPが私の支えになってくださることをありがたく思います。私自身まだまだ主の導きに素直に沿える自信はありません。でも、そうありたいと願っています。大変な葛藤がありますが、毎日神様のことを考える毎日です。私の家族や私が一途に愛する三女の父親だけでなく、彼の両親や友人、まだ出会っていないすべての人の心に平安が訪れ、神様のご加護があることを祈っています。
長い長いメールになりましたが、ありがとうございました。本当に感謝しているのです。みなさまに神様のご加護がありますように。