■強迫傾向とパラノイド さて、ユダヤ人はその律法戒律主義と細部にわたる儀式で有名です。いわゆる安息日はホテルのエレベーターまで止まります。その息も詰まるようなこだわりの原因はどこにあるのでしょう。また彼らは歴史上"いわれのない"迫害を受け、厳しい試練をくぐってきたことは事実ですが、どうして彼らがそのような目に会うのでしょう。実はこの二つの論点は密接に絡み合っています。 まず歴史的事実として彼らは旧約聖書に予言されているメシア・イエスを拒否しました。彼らはイエスとの対決において彼の神的権威を認め、うすうす彼が本物であることを知っていたにも関わらず(何も気づいていない人はイエスに何らの反応もしません)、それを否定し、彼を殺し、その罪責感を抑圧しました。この罪責感は絶えず彼らの意識上に上ってきて、彼らの良心を苦しめますが、この良心をなだめるためにある一定の行為を儀式として繰り返します。具体的にはユダヤ教の儀式になるわけですが、これは彼らの良心の葛藤が大きいほど、他者からの隔離と閉鎖傾向を強め、細部にわたって執拗に繰り返されます。このような状態を強迫神経症あるいは強迫行為と言います。つまり彼らのユダヤ教的儀式や戒律などはすべて強迫神経症の症状と見ることができるのです。彼らの強迫傾向はひとつの大きな特徴です。これはフロイトも霊的レベルにおいてではありませんが、犯した罪を抑圧することによる強迫傾向について指摘しました。 次に彼らが迫害を受ける原因として第一義的に彼らの排他的選民意識によるところが大です。人の精神の働きとして自分の内側にある意識や感情を相手に投影して、自分の内にある意識や感情を相手の内に見る心理機制(メカニズム)があります。例えば憎悪などの感情を自分が持つことは良心の咎めを受ける場合、相手がその憎悪を持っているとして、自分の良心の呵責を回避しようとするわけです。現代に多いストーカーなども自分のうちにある愛情を相手が自分に抱いているとして相手をつけまわすことがなされます。これらがひどくなると被害妄想や恋愛妄想に発展します。かつてのアメリカとソ連の軍拡競争も、自分が核を持てば持つほど、相手も持つのではないかという妄想を膨らまして、地球を何百回も滅ぼせるほどの核で軍備増強したわけです。これは迫害する側の精神病理も同一です。 彼らの自我は良心の葛藤による分裂を抱えたまま、強迫傾向により増幅された排他的選民意識によって肥大します。しかしこれは内実を伴なわない肥大であり、きわめて脆弱な状態にあります。つまりひじょうに傷つきやすいのです。これは私がイエスラルに行ったとき、彼らの中にあるそのような繊細さ、ナイーブさを感じ取ることができました。こうして過敏さを増し、些細なことで傷つく傾向を帯び、その結果他者に対して防衛的姿勢を取るようになります。これと彼らの排他的選民意識が絡んで、他者を排除する傾向と閉鎖性を帯びるようになります。 ここでカルト問題と同じ問題構造になります。聖書に拠れば、イエスが肉体を取られたことを告白しない霊は偽りの霊です。この意味でユダヤ教自身がもともとは啓示によって与えられたものであるにもかかわらず、偽りの霊によって一種のカルトに落ち込んでいると言えます。さて、カルトにおいて必ず被迫害妄想(パラノイド)があります。これは自分の内の他者排除あるいは攻撃性を相手に投影する結果として、自分の方がその被害を受けているように感じ取る心の動きです。しかもその姿勢を見た相手から実際的な行為を受けることになります。例えばいじめっこ−いじめられっ子関係はこのようなメカニズムで成立します。(注意:ここではいじめっ子の責任をすべていじめられっ子に転嫁する論理を展開しているのではありません。) これは選民意識によって肥大して内実のない脆弱な自我を守るための心理機制なのですが、自我が肥大していればいるほど、相手に投影する他者排除と攻撃性も強くなり、その結果自分が受ける被害も大きくなります。彼らが受けている被害は、肥大した尊大な自我と内実のない臆病な自我という内面の分裂(アンビヴァレンツ)にあります。これがパラノイド傾向、あるいはアイデンティティを担保するための融通の利かない儀式(強迫傾向)、あるいは頑なさとして現れます。 そして前者は独裁者に、後者はユダヤ人にあてはまります。つまりヒトラーとユダヤ人は同じ"もの"をもっており、かつてのホロコーストの悲劇は互いに相手の中に自分の嫌悪する要因を見た結果なのです。一説にはヒトラー自身がユダヤ人の血を引いていたとの未確認情報もあります。いずれにしろヒトラーは自分の中にある嫌悪する要因を、ユダヤ人に投影してそれを抹殺したかったわけです。ここでも真実を抑圧する自己欺瞞があり、彼は強迫的にユダヤ人を粛清していったわけです。しばしば加害者と被害者は同種の性向を帯びていることが多いのです。そして被害者は絶対的に強い立場を得ます。ここでも現代のユダヤ人は被害者であり、同時に加害者であるという二重性あるいは乖離性を持ちます。 ■トラウマの抑圧 かくしてユダヤ人はトラウマを抱えます。古くはアッシリア、バビロン、さらにローマによる殲滅から、十字軍による虐殺、中世の異端審問やゲットーにおける生活、さらに近代のヒトラーによるホロコーストまで、彼らの歴史はトラウマの歴史と言えます。しかし彼らは神の選民であり、神は自分たちをこのような目に会わせることはあり得ないとして、ますます「メシア」の到来を待ち望みつつ、閉鎖傾向と強迫傾向を強めます。すなわち彼らはレイプされた女性と同様に、ますます自己欺瞞に落ち込み、その悲劇を強迫的に反復するのです。もちろん加害者に非があることは言うまでもありませんが、今は正義の問題を論じているのではなく、彼らの精神病理を論じているわけです。 こうしてユダヤ人は内に外部に対する憎悪と恐れを抑圧すると共に、それらを外部に投影してパラノイド傾向を強めます。実際、現代でもユダヤ人について論じるだけで「反ユダヤ主義」のレッテルを貼られ、雑誌などが廃刊に追い込まれることがあります。ユダヤ人人権団体は強い政治力と影響力を有しておりますが、それは彼らの内的な恐れの強さに正比例しています。ある面で脅威となる存在です。興味深い点はこのような精神病理はある種の伝染性があり、ある種の人々の間で共有されます。そこではユダヤ人についての話題はきわめて過敏な反応を生み出し、またある種のタブーが存在します。 ■タブーの存在 原発性の真実を抑圧する結果、その抑圧が存在する間は、真実を隠蔽し続けるために、様々のタブーが作られます。その真実と同種のもの、関わりのあるもの、連想させるもの、これらはすべてアンタッチャブルとされ、論じることすらも禁止されて行きます。こうしてその社会は閉塞感を強めていきます。周りから見るとその閉鎖性によりますます疑心暗鬼を強めるという負のフィードバックに入ります。歴史についても外に出せる真実と出せない真実を選択しつつ、表の「定番」となる「歴史」を作ります。真実から逃れるための強迫反復傾向をもつ自我には必ずこのようなタブーと偽りが存在します。 時にこのタブーは神話化され、現実から遠ざけられることがあります。神話や言い伝えなどはこのように何かの不都合な真実を隠蔽するための試みとして形成されることが多いのです。そしてその神話にまつわる儀式やしきたりが形成されていきます。この儀式やしきたりを守っている限りは、良心のなだめを得ることができ、原初的真実に直面するを回避できるわけです。実際ユダヤ人の間には旧約聖書以外にも様々の伝説や逸話、さらに儀式やしきたりが存在します。 このようなある種の胡散臭さに対して、ユダヤ人の血統問題を論じる試みなどもなされてきました。例えば自身がアシュケナジ・ユダヤ人であり、ホロンの提唱者として有名なアーサー・ケストラーによる「第十三支族」説です。これは現代のアシュケナジはアブラハムの血統的子孫ではなく、8−9世紀ころ黒海近くにあったハザール帝国が国家規模でユダヤ教に改宗し、その子孫であるという説です。その真偽についてはある人々は戯け話であるとし、ある人々はまともに受け取っています。遺伝学的にも調査がなされ、それを否定する結果も提出されています。 またいわゆるユダヤ人による陰謀説なども流行しています。世界で起きるすべての事件はユダヤ人の陰謀によるものであるとして、彼らが世界征服を狙っているとするわけです。実際石油メジャー、穀物メジャー、情報機関などをユダヤ人資本が抑えていることは事実ですから、もっともらしく聞こえるわけです。これについてもある種の人々は戯言であり、ある種の人々は真実であるとしています。 しかし私がここで問題としたい点は、ケストラー説や陰謀説が正しいかどうかではなく、このような説が出る下地をユダヤ人自身が作っていることです。すなわちタブーの存在です。例えば「アシュケナジー=ハザール人」説を論じるだけで、反ユダヤ主義のレッテルを張られてしまうことがおきます。しかるにこの種の論議を呼ぶ発言はユダヤ人(アシュケナジ)自身の中から出ています。ここにも自我分裂の兆候が見て取れます。この分裂した自我の真実から逃れるためにタブーが存在するのです。このような過敏な反応は、彼らの内部に何らかの抑圧された真実が存在することを証明しています。これは彼らが原初的真実に直面し、それを認め、良心を適切に取り扱うときに初めて解放されます。 ■ユダヤ人問題における見えない壁 そして私が経験した範囲で言えば、ユダヤ人に入れ込むあるいは積極的に擁護するタイプの人々においては、ユダヤ人との無意識的同一視と彼らのこれらの要因(パラノイド、排他的攻撃性、尊大な自尊心、強迫傾向、タブー)を共有する傾向が見られます。彼らのユダヤ人に対する姿勢は過敏性と何か特殊なにおいを醸し出しており、第三者が安易に入り込むことができないある種の霊的な見えない壁の存在を感知します。それに触れると問答無用ではじき返される何かが存在します。 一方でクリスチャンであっても徹底的にユダヤ人を排撃する人々もいます。マルチン・ルター自身がかなり過激なユダヤ人論を展開しました。現在でもユダヤ人にたいしてルターと同じ霊で対応する人々もいます。いずれにせよ、ユダヤ人問題は不用意に関わると、それぞれの内の肉にある要塞がある種の霊によって刺激され、たちまちややこしくなる危険性を帯びており、立ち入るにはそれなりの備えが必要です。これはとても不思議な現象であり、もう少し突っ込んで解明する必要性を覚えます。 【注1】本稿の分析を裏付けるように、ハーザー誌2002年1月号において、メシアニックのヨセフ・シュラム師が同じくメシアニックのアーノルド・フルクテンバウム師に対して「偽預言者」との発言をなし、後に「自分の発言は感情の昂ぶりによるものであり、謝罪する」との公式声明を出しています。本件は見かけ上はフルクテンバウム師の「再離散」の教えを巡ってのことですが、彼らの間に存在する内在化された葛藤が表面化したものと言えます。このようにユダヤ人のしかもメシアニックの間においてすら過敏な情緒的反応が起こるほどに、その深層心理において分裂した自我による病理を抱えていることが伺えます。対話をも拒否する情緒的反応はユダヤ人問題においてしばしば遭遇する問題であり、奇しくも当事者同士においてその病理性が証明された形になりました。(詳しい経緯はこちらをどうぞ。直接リンクは避けておきます→http://www.zion-jpn.or.jp/netivyah/mes01.htm) 【注2】本件についてはシュラム師が過ちを認めて謝罪したからよいだろうと言う意見をいただきましたが、これはメシアニックの本質をはずした見解です。彼らは単なるクリスチャンとしてのアイデンティティにとどまらず、「イエシュアを救い主としつつユダヤ教下に生きることをあえて主張している民」です(注)。すなわち本件の場合、「偽預言者はすべて死に値する」とする旧約聖書によれば、シュラム師はフルクテンバウム師を死刑に値すると宣告したのです。もしくは自分を死刑に値するとします。旧約聖書を熟知している彼らにとって、「偽預言者」というラベルは重大な意味を持つものです。よってその発言をする側も自分を神の裁きの下に置くリスクを知っているはずであり、本来は「謝罪」などですむ問題ではないのです。要するにあまりにも軽率な発言であり、また事後処置もあまりにも軽々しいと言わざるを得ません。これはすなわち彼らの内的な抑えきれない衝動に突き動かされた結果であり、内面の深刻な自我分裂による葛藤の存在を意味しているです。そもそも「メシアニック・ジュー」というアイデンティティの持ち方自体が自己矛盾的かつ病理的です。というよりも概念の定義としてナンセンスであり、霊的次元と魂的次元を混同することによる、ある種の妥協的産物と私は評価しております。なお、これについては稿を改めることにします。 (注)最近得た情報では、メシアニック・ジューの中にもさらに二種類の立場があり、ひとつはイエシュアをメシアと信じるが神の子と信じないタイプ、もうひとつはイエシュアをメシアにして神の子であると信じるタイプだそうです。前者は1ヨハネ4:2,3により、神の霊によるものではありません。後者は別にメシアニック・ジューなどと呼ぶ必要はなく、私たちと同様のクリスチャンです。ペテロやヤコブもクリスチャンと呼ばれたのです。ここにも一種の肉の誇りを担保するための欺瞞性を見て取ることができます(ガラテヤ6:12)。 |