少年たちの心の闇を探る
医学博士 唐沢 治
■本稿はリバイバル新聞2000年5月14日号掲載記事の原稿です。
はじめに
私はすでに昨今のカルト問題や猟奇的事件の発生の原因となる霊的病理について総論的に分析しているが(2月20日号)、その後も少年によるこの種の事件が後を絶たない。しかもその質と程度において常軌を逸している。いったい彼らの心の中には何が起きているのであろうか。今回はそれらの犯罪の裏に潜む病理を各論的に考察してみたい。
その精神病理
社会規範やシステムの崩壊による外界適応のための内的世界モデルの構築が困難となり精神が"空回り"すること、内的世界モデルのヴァーチャル化(幻想化)が促進されること、またコミュニティーの崩壊によりアイデンティティーの担保を喪失し自己不全感に陥ること、その結果自我の受傷を回避すべく対人関係の間接化や、自己不全感を補償するためにカリスマ性をもつ教祖に対して盲目的に帰依するカルトが成立することはすでに指摘した。今回の連続する少年犯罪も基底にはこの病理が観察される。
最近大学生や予備校生と接触するとき共有し得るものがあまりに少なく不明瞭である事を感じる。私の内的世界モデルと彼らのそれとはまったく異質であり両者間の了解性が欠落する。最近では正常であっても通常分裂病患者から受ける"分裂病くささ"を感じさせ、米国精神医学会の診断基準であるDSM−Wなどによる"境界性パーソナリティー"を持つ若者が増えている印象がある。彼らの内には現実から分離された形でほとんど幻想に近いヴァーチャルな世界モデルが構成されており、それに基づいた判断と行動をしているのであろう。しかも若者特有の衝動的な行動も加わるとある種の脅威も感じる。大人から見ると捕らえどころのない、異界の住人のように見える。
その霊的病理
ここにさらに霊的要因もからんでいる。すなわちヴァーチャルな世界で外界との関係を間接化して精神を自己の内に閉塞する結果、一種の受動性を招来する。この受動性こそ悪霊の接触にとって格好の培地となる。サタンや悪霊は霊的な存在であるが、独自の思いを持ち、しかもそれらを私たちの思いに投影し得る。エバやイエス、そして私たちに対してもこのような形で誘惑がなされる。彼らの思いはもちろんあらゆる不潔や汚れ、悪意と欺瞞、また恐怖や恐れに彩られ、その暴露を繰り返し受けるならば、私たちの精神自体もそのような性質を帯びる危険性がある。しかも昨今のコンピューターゲームやインターネットの普及によって、その妄想をただちに映像化しシミュレーションし得る。ここで彼らの思いに投影された妄想的影像は強化され、そこにカセクシス(給付)されたエネルギーがある臨界点を超え内的に留め得ないレベルに至ると、ついに一つの犯罪行為が成立する。
しかも彼らには自分の行動に対する内省はない。精神分析的に言うと、成人の場合の"現実原則"に沿った自我の統合的制御下にある内的エネルギーの配分とその解消の過程を2次過程と称し、それに対し自我が目覚める以前のイド(本能的欲望のエネルギーに満ちる無意識的領域)における"快楽原則"に従う1次過程としての無秩序な仮想的行為が、青少年においても優勢であり続ける。彼らは肉体的には成長していても、内的には乳幼児と変わりない。しかも乳幼児は無邪気であるが、彼らは悪霊的な邪気に目覚めているために、その無秩序な幼児的仮想行為に残虐性を帯びる。
その対応
このように精神病理に加えて霊的病理が絡んだ問題であるだけに、これらの少年犯罪に対する対応は非常に困難である。社会の側としては自らの腐食部分の全摘と崩壊しつつあるパラダイムに代えて新しいそれを確立し、そのプロトコルに従えば将来の展望やアイデンティティーを確立し得る保証を与え、精神エネルギーの1次過程的内部停留を解消し、自我統制下における2次過程的なエネルギーの配分と解消をすればよいと説明できる。
加えてすでに霊的に相当に侵食され、あらゆる領域に腐食した領域(="サタンの要塞")を構築されている日本においては、なかんずく霊的戦いが必要となる。真理としてのキリストを命として提供し、その命による癒しと究極的リアリティーを提示する聖書の啓発によって、彼らの内的世界モデルを是正すること、そして御霊のオリエンテーションの下でその内的エネルギーの配分と解消を導くことが必要である。