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ニッポンキリスト教聖化について
投稿日 | : 2005/11/29 21:02 |
投稿者 | : 赤子 |
参照先 | : |
Luke先生
いつも読ませていただき、学ばさせていただき感謝しております。「ニッポンキリスト教聖化」などは、苦悩を生むだけです。というところをもう少し詳しく教えていただけないでしょうか。お願い申し上げます。
Re: ニッポンキリスト教聖化について
投稿日 | : 2005/11/29 21:05 |
投稿者 | : Luke |
参照先 | : |
> Luke先生、ありがとうございました。
> 「聖化とは」を読ませていただきました。聖化についての理解の仕方は、修正カルビン系に似ていると思います。
そうなんですか。私は医学的に理解しているだけなんですね。
>私も、先生の書かれていることにしっくりきます。ウエスレアンでは、罪の性質がきよめられる、といいますが、これは「内住している罪」が血潮によって、また、信仰によって消去される、という考え方であると思います。
まず内住の罪(Sin)と個々の罪(sins)の区別が要りますね。後者は主の血で取り除かれていますが、前者はいぜんとして体に残っています。
そして「罪の性質」と言う言葉が実は曲者です。私の本でも指摘していますが、パウロの「肉」を「罪の性質」と訳したり、「内住の罪」を「罪の性質」としたりするために、ややこしくなるわけです。原語に「罪の性質」なんて単語はありません。
まず「肉」は「古いアダムのパタン」であり、きよめられませんから死に渡すだけです(脱条件付け)。そして新たな思考行動パタンを焼き込む(再条件付け)必要があります。これは信仰によります。
「内住の罪」を「罪の性質」とすると、パウロの言う「罪(sins)を犯すのは私ではなく、内に住む罪(Sin)である」と矛盾します。罪(Sin)は外来性のものであり、<私ではない>のです!これが失敗した場合に罪責感に囚われない秘訣です。パウロは自分を責めたのですが、それは不毛なのです。私たちの責任は罪(Sin)に体を委ねないことです。
ところが「罪の性質」と言ってしまうと、それはあくまでも「私の何か」になります。この場合、延々と自分の行為の責任を自分で負って、自分を責め続けたり、清めようとしたり不毛な努力に落ちるでしょう。罪(Sin)そのものは今の体が古い創造に属する以上、その中に存続し続けます。体の贖いを得るときに真の意味で清められます(罪(Sin)の除去)。
>もし、「内住している罪」が消去されたとしたら
これは上に述べたとおり、現在の経綸では消去されません。主の再臨まで、古い地上の幕屋の中でうめきつつ、待つ必要がありますね。
>「全ききよめ」の後に罪に属する思いが、心の中に現れたら、それは、サタンあるいはその配下のものが心に入れ込んだ、あるいはそのように思わせた、ということになると考えたわけです。
ウエスレアンでは「全ききよめ(私は罪(Sin)の除去と理解していますが)」が、今の体(現経綸)で可能であると考えるわけですか!?これではクルシチャン大量生産でしょうね。
>「内住の罪」は、御霊の法則によって処理されていくものと考えますが、また、読むべきところがありましたら教えてください。「内住の罪」が肉体を持っている間続くとしたら、「罪の性質がきよめられる」という理論に基づいて励んでおられる方は自己矛盾や、ありもしないことを求めて疲弊してしまいます。
おっしゃるとおりです。元々できないことをやろうとして疲弊する。自分の髪の毛を引っ張って空を飛ぼうとして、できないと信仰が足りないとか、まだ清めが不十分だとか、クルシチャンするわけです。
・肉について
http://www.kingdomfellowship.com/Topics/flesh.html
・罪とは
http://www.kingdomfellowship.com/Keywords/sin.html
などが参考になるかと思います。
ちょっと前にもめた「再建主義」なんかは、こういった人のメカニズムに対する理解が欠如したままに、旧約律法を実行せよとかなるわけで、われわれサイエンティストから見ると、前ニュートン的だとなるのですね。えらく怒られてしまいましたが^^
私たちにできることには責任を負いますが、できないことは責任を問われません。この線引きをすることが自由を得る第一歩でしょう。
Re: ニッポンキリスト教聖化について
投稿日 | : 2005/11/29 21:05 |
投稿者 | : 赤子 |
参照先 | : |
Luke先生、ありがとうございました。
「聖化とは」を読ませていただきました。聖化についての理解の仕方は、修正カルビン系に似ていると思います。私も、先生の書かれていることにしっくりきます。ウエスレアンでは、罪の性質がきよめられる、といいますが、これは「内住している罪」が血潮によって、また、信仰によって消去される、という考え方であると思います。もし、「内住している罪」が消去されたとしたら、「全ききよめ」の後に罪に属する思いが、心の中に現れたら、それは、サタンあるいはその配下のものが心に入れ込んだ、あるいはそのように思わせた、ということになると考えたわけです。その事例は、聖書の中にもサウルやイスカリオテのユダの例にありますから。「内住の罪」は、御霊の法則によって処理されていくものと考えますが、また、読むべきところがありましたら教えてください。「内住の罪」が肉体を持っている間続くとしたら、「罪の性質がきよめられる」という理論に基づいて励んでおられる方は自己矛盾や、ありもしないことを求めて疲弊してしまいます。
Re: ニッポンキリスト教聖化について
投稿日 | : 2005/11/29 21:04 |
投稿者 | : Luke |
参照先 | : |
>もう少しきよめについて思っておられることを詳しく書いていただけないでしょうか。
聖化は心理学的プロセスです。私はカルバン派神学もアルミニアン派神学もよく知りませんが、人間の心の事実としての聖化は分かるつもりです。こちらをごらんください:
・聖化とは
http://www.kingdomfellowship.com/Keywords/sanctify.html
道徳や倫理の問題として捉えないことがニッポンキリスト教的聖化論の罠に落ちないポイントだと思います。
「地位的(客観的)聖」はすでになされています。「経験的(主観的)聖」は私たちの生きるプロセスそのものであり、アップダウンをしながら、絶えず追求すべきことでしょうね。
私の定義は、「キリストにあるすべての次元(体・魂・霊)での必要の満たしといのちによる体・魂・霊の統合化された健全さ」と言えるでしょうか。
・成長コース・シラバス
http://www.kingdomfellowship.com/College/03W/seicho/syllabus03W_1.html
Re: ニッポンキリスト教聖化について
投稿日 | : 2005/11/29 21:04 |
投稿者 | : 赤子 |
参照先 | : |
ジョンウエスレーは、キリスト者の完全という本を書いていますが、その本を読んでみたり、ウエスレー日記を読んでみたり、その他、多くの聖化の本を読んでみたりしましたが、簡単に言えば、キリスト者の完全とは、全き罪の悔い改めと、神への全き服従と全き献身によって罪の性質をきよめられ全き愛と全き信仰を神様からいただけるのである。と、いえるのかな。と思いました。ジョンウエスレーは完璧主義者だから、あるいは強迫的だから聖書のいろいろな箇所からの聖句をも用いてこの神学理論を構築したのでしょうか。しかし、ジョンウエスレーの弟のチャールズウエスレー(賛美歌の歌詞をたくさん書いている人)は、「兄さん、本当にキリスト者の完全てあるの?」と聞いているところがあります。兄は、「疑うんではない。」というようなことを語っていたと思います。何しろ10年以上前に読んだのでいい加減ですが。ただ、言えることは、私は、全き愛を持っている人に会ったことがありません。「聖」ということばでも、キリストが流された血潮によって聖とされている。という法律的というか立場というかそのような意味での「聖」と聖徒はいよいよ聖なる者とされなさい。といわれている実質的「聖」とが混同してしまっているようにも思います。(今、カキコをするにあたって、いちいち聖書を開いていないので、正しい聖句の表現になっているかどうか不安ですが。)また、ある故人の説教者は、平和の神ご自身が、あなた方を全く聖なる者としてくださいますように。と、パウロが祈っているのだから、全ききよめはあるのだ、といいますが、そのところの後には、イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなた方の霊、魂、体が完全に守られますように。と書いてあります。さらに、あなた方を召された方は、真実ですからきっとそのことをしてくださいます。と書いてあるのを見ると、ある意味での時間差を感じてしまいます。私は、信仰を持って初めに修正カルビン系の組織進学をかじってみました。その後、飽き足らずにアルミニアン・ウエスレアン系の神学をかじってみました。その他、信仰のない神学書も読んでみました。でも、神様が与えてくださった信仰のはかりに応じて自分は自分、自分と神様なんだなー、という思いを強くしています。25年間聖書の通読と神学書、信仰書をたくさん読み続けてきましたが、Luke先生が他の人と違うのは、献金によって生活をせず、精神医学の造詣が深く、み言葉をそのまま信じているからだなー、と思います。ニッポンの講壇から語られるきよめとウエスレーが語ったきよめとの間にも大きな開きがあるように思えます。もし、お時間が取れましたら、もう少しきよめについて思っておられることを詳しく書いていただけないでしょうか。
Re: ニッポンキリスト教聖化について
投稿日 | : 2005/11/29 21:03 |
投稿者 | : 赤とんぼ |
参照先 | : |
世界中、どこの国に行っても、その国にあわせたキリスト教になってしまっているではないでしょうか。パウロがもし、今の世界中のキリスト教を見たら、びっくりするでしょう。例えば、12月24日にキリストの誕生を祝うなんていうことは、異端だと激怒するかもしれませんよ。
Re: ニッポンキリスト教聖化について
投稿日 | : 2005/11/29 21:03 |
投稿者 | : Luke |
参照先 | : |
そうですね、神学そのものが人間を忘れているわけです。人間の心を知らずして、神学的聖化をやろうとしても、絵に描いた餅です。これはね、ホー○ネスあたりの先生の家庭の実態を見れば明らかです。一言で言えば、自分の髪の毛を引っ張って空を飛ぼうとしているわけです。