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カルバンvsアルミニウス-決定論と偶然論
投稿日 : 2005/12/17 23:40
投稿者 Luke
参照先
Blogで触れたことですが、カルバンとアルミニウスの議論(決定論と偶然論の議論)が現代のカオスの理論あるいはもっと広く複雑系の理論によれば、意味のないことであることをちょっとこちらにも残しておきます。まあ、サイエンスと神学は違うのだとおっしゃる向きには、そうですか、ご勝手にとなりますが・・・。

山谷氏の掲示板で外科医さまの提起された刑法に関して、決定論か、非決定論かの議論が展開されており、なかなか面白い。

で、われわれ自然科学者からすると、実は、偶然と必然は区別ができないのだ。

例えば、コインを投げたとしよう:

 (※) 裏、表、表、裏、表、裏、裏、裏・・・

と続く時、皆さんはこれを見て、これは必然によって生み出されたか、偶然によるのか、お分かりになります?実は数学的には区別ができないのです!

今ここに非線形変換を

 (※※) a(n+1)=λa(n)(1-a(n))

と定義します(これを「ロジスティック写像」と言います)。これはa(1)を与えれば、この規則(決定論)によって、a(2),a(3),a(4),...が一意に決まってしまいます。

一方で(※)の系列は実はコイン投げの結果です。さてここで(※※)のλをうまく取り、a(n)が0.5以上ならば裏、未満ならば表に対応させると、あーら不思議。(※)の系列を決定論的な上式(※※)によって作り出すことができるのです!

つまり偶然を必然から作り出すことができるのです!

このような理論を「カオスの理論」と呼び、現代のひとつの大きなサイエンスの分野を構成しています。

私たちサイエンティストから見ると、神学は単なる言葉遊びにしか見えないが、果たして神学はこういった分野を取り扱うことができるのでしょうか?
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ご回答
投稿日 : 2005/12/21 09:09
投稿者 Luke
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ええと、またまた抗議をいただいてしまいました。「あなたは自然科学者なのだから、神学をとやかく言うことは僭越であろう、自分の分をわきまえよ」と言うご主張です(よね?)何だか富井氏的になってきましたが、再建主義でなくても(ですよね?)、こういった主張をなされるわけですか、神学者の皆様は・・・。

私たちは神学を学ぶことはやぶさかではありません。が、カルバンとアルミニウスにせよ、改革派神学にせよ、再建主義にせよ、本質が見えてしまうとそれまでなのですね。御言葉から乖離していることが分かった段階で、後はご勝手にとなります。

今回私が指摘した決定論と偶然論については、山谷氏が提起したので、私たちサイエンティストからの判断を述べたのです。もし神学的に意味があるのでしたら、勝手にしてくださいと申し上げているはずです。

どうも神学者は独特のプライドがおありのようです。よろしいでしょうか。あなたがたは現代物理や医学の恩恵を被っていることでしょう?それらの論理的問題を指摘できますか?例えば進化論の木村説を論駁できますか?無理ですよね。

逆に私は神学を論駁しようとしているのではありません。あなたがたの世界があるのでしょうから、どうぞ自由にしてくださいと言っているのです。ただし、あなたがたの論理では私たちを納得させることはできませんよ、と言っているのです。少なくともサイエンティストに福音を語るとき、弁証になり得ないと言っているのです。

そもそも私はそのような神学の弁証を聞いて救われたのではありません。御言葉を聞いて救われたのです。この辺のところがお分かりにならないと、自閉性世界での空転的自己満足的議論と言われても仕方のないことだと思いますが。

かなり率直に申し上げたこと、ご不快でしたらお詫びいたします。が、言いたいことをご理解くださると幸いです。私たちの使命は福音を伝える(御言葉の種を撒く)ことなのですから。


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閉鎖性の病理
投稿日 : 2005/12/19 16:06
投稿者 Luke
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カルバンとアルミニウス(決定論と偶然論)の議論が現代科学ではまったく意味のないことをすでに述べましたが(「いや、神学的には意味があるのだ」と言われれば、「ああ、そうですか、勝手にどうぞ」となります。ますます神学は・・・となるだけですね)、文句の言いついでに、進化論に対する批判について、私はクリスチャンですが、批判してみましょうか。

よくご丁寧にエントロピーを持ち出して無秩序から秩序が生じないことを「論証」しますが、われわれから見ると、足し算引き算しか知らない小学生が、微分積分に異議を唱えるようなものです。無秩序から秩序をエントロピーの法則に矛盾しないように作ることができるのです!これを「自己組織化」あるいは「散逸構造定理」と言います。

また確率論を持ち出して、DNAができる確率は、バラバラの部品を空に投げたらジャンボができる位の確率だとして、自然にはできないことを「論証」しますが、これもナンセンス。

自然数の個数は無限個ですね。では自然数の比で表される有理数の個数は、もちろん無限個です。ではどちらがたくさんありますか?もちろん分数・・・ではありません。自然数と有理数は同じ個数です!しかも任意の二個の有理数の間には無限に有理数があります(これを稠密性と言います)。

さて√2などの実数は有理数ではありません(整数比では表せない)。で、無理数は無限個ありますが、これは自然数や有理数の無限個よりもさらに大きな無限個です(正確には「濃度」と言います)。この有理数と無理数をあわせて実数と言いますが、かくして「自然数の個数/実数の個数=0」なのです(正確には測度論を必要とする)!言っていることが御分かりでしょうか。確率をパスカルの古典論でいじくりまわして「確率が限りなく0に近いから起こり得ない」とする神学者の「論証」はナンセンスなのです!

このように私たちサイエンティストから見ると、こう言った幼稚な進化論批判などはますます真摯なサイエンティストをのけぞらせ神から遠ざけるだけでしょう。独り善がりのオメデタ・キリスト教徒となるわけです。これは神の創造を信じる私ですら、このニッポンキリスト教界と触れているとますます強く感じることです。閉鎖社会の中でメンツを張り合って空回りしているだけの「井の中の蛙」なんですね。

「リバイバル音頭」で酔ったり、「何とか神学」を狂信する前に、もっと真摯かつ謙虚に学ぶべきでしょう。

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Re: カルバンvsアルミニウス-決定論と偶然論
投稿日 : 2005/12/18 18:47
投稿者 財前二郎
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弁証法がどうのこうのって、ルークさんらしくないですね(笑)結局いつも言われる、カルバンさんでもなく、アルミさんでもなく、キリストだけってことじゃあないですか?
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Re: カルバンvsアルミニウス-決定論と偶然論
投稿日 : 2005/12/17 23:45
投稿者 心配性
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まさにこのキリストにおける霊的弁証法を、カール・バルトがやったわけですね。
霊的レベルを忘れたdialectは平板化して命を失ってしまうということを、予定論の議論は示していましたが、バルトはキリスト論的に、予定論をdinamicに乗り越えたのだと思います。
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Re: カルバンvsアルミニウス-決定論と偶然論
投稿日 : 2005/12/17 23:46
投稿者 Luke
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人生はカオスであると書きましたら、「カオスは混乱と言う意味ではないか」とお尋ねをいただきました。あの〜ですね、私たちが使うカオスの定義をまずはご理解いただきたい。

上に書いたとおり、「決定論から生じる系列と、さいころを振ってできる系列が区別ができない」と言うことが私たちの言うカオスです。このカオスにはイロイロと面白い性質があるのですが、私たちクリスチャンの人生はまったくカオスなんですね。

ちなみに物質ですら、量子力学によれば、粒子なのか、波動なのか、区別ができないのです。私たちの知性の中に実存のモデルを構築する場合の制限であり、ヨブに対して「お前に創造の神秘が理解できるか」と問いかけた神の人間知性に対する訴えなのです。

例えば、私たちの選び。エペソ書によれば、「天地の基が置かれる前から私たちは選ばれていた」とあります。で、カルバン主義では、運命論的に選ばれてない人は救われないとなり、修正アルミニアン主義では、選ばれていても自由意志で拒否できるとなるわけです。「カルバンvsアルミニウス」―勝敗はどっち?

われわれからしますと、「分からない」のです。つまり私たちの人生の時系列は決定論によるのか、偶然性によるのか、カオスの理論によれば区別できないのです!私たちの自由意志は神の選びを無効にできるか、できないか。あるいは私たちの救いは神の選びによる(決定論)のか、私の自由意志によるの(偶然論)か。「区別できない」とするのが私たちサイエンティストの立場です。

聖書に書いてあるとおり、「神はすべての人が救われることを願われる」とあり、また「私たちはすでに選ばれていた」とあるとおり、そのままに「アーメン」と神に栄光を帰するのみです。「選ばれていない人はどうなるの?」と言う質問自体がすでに"ill-posed"(不適切な問題設定)なのです。このふたつの命題をどう矛盾なく神学の体系に組み込むのか、私たちからすると元々無意味な作業であると思うわけ。

私たちの自由意志が神の定めを無効にできるのか(=偶然論:これは神の全能性に反する)、できないのか(=決定論:これでは人の自由意志の働く余地はない)、判断できないのです!

そもそも私たちは物理的な時空連続体に閉じ込められていますが、神はそれを超えた存在です。ですから神にとって私たちの人生の系列はすでに全工程が見えているのです!で、聖書はあなたがたは聖とされ、完成されたと告げています。

私たちはその地点から現在を逆算するだけなのです。行き着くところはすでに決定している。その間を埋めるのが私たちの自由意志です。別に再建主義に反対しようが、その神の決定を覆すことはできません。私たちの罪や失敗も神の決定を覆すことはできません。神はすでに私たちを完成された者として見ておられるのです。

その視点に立てば、私たちの人生は運命論的に決定しているからとして自由意志を放棄するものでもなく、何でも自由に振舞うべきものでもないと分かります。神の定めと私たちの自由意志とが綾なされて私たちの地上の行程は刻まれます。そこを目指して歩めばよいのです。

・神の予定と人間の自由意志について
http://www.kingdomfellowship.com/Ministry/Articles/Wills.html

それは生きることはキリスト。キリストは道。人生の成功とか、失敗とかで振り回されるのではなく、キリスト御自身が目標。キリストから外れないことを自由意志で選ぶのです。またキリストを獲得することが私たちの動機なのです。大切なのは、決定論か偶然かと考えて立ち止まることなく、どこにおいても、どんな状況でも、神と共に歩くこと。これで十分ではないですか?神はインマヌエルなのです!

 <決定論(テーゼ)vs偶然論(アンチテーゼ)>を止揚して、<キリスト(ジンテーゼ)>

これって「霊的弁証法」と言えるのだろうか?

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紙一重の差
投稿日 : 2005/12/17 23:43
投稿者 Luke
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カルバン主義とアルミニアン主義はプロテスタントでの大きな分裂要因であるそうだが、実はその違いは紙一重であるらしい。私自身はどちらに属すかは分からないのだが、Dr.Lukeと富井氏の差も実は紙一重。両主義についてはこちらがよくまとまっている。

・カルヴァン主義、アルミニウス主義、神のみことば
http://homepage1.nifty.com/fountain-of-life/info_j01.htm

こういった議論をするのが神学だというわけだが、御言葉をこのようにニンゲンの頭に入る形で定式化した時点ですでに御言葉から離れてしまっている。ヴィトゲンシュタインは「言語は世界の映像である」と言ったが、「論」はまさに実体ではなく、映像なのだ。ところがいったん神学の定式化ができてしまうと、今度はその映像のレベルでの齟齬をめぐって議論が生じる。その際、御言葉(と主ご自身)はどこかに置き忘れられている。郡盲像をなでるが如し。対してチャック・スミスは御言葉をそのままに述べているだけ。私的には一番フィットすることは前にも述べた。

同じように、私たちの神への信仰と唯物論的共産主義は致命的に異なり、その間には絶望的なギャップがあるかのように見えるが、実はその違いは紙一重なのかもしれない。共産主義も「すべては唯一物論的に展開する」という一種の信仰だからだ。進化論も同じ。誰も見たことのない進化を、彼らは見ないで確信している。それはまさに信仰。世界を説明する映像の違いに過ぎない。

かくして私たちとの違いはその信仰の対象。だからこちらサイドからどれほどに合理的な説明をして進化論の矛盾を突いても、彼らにとっては無意味。彼ら自身が進化論には不十分な点があることは十分承知だから。日々彼らは進化のメカニズムの解明を試みているわけ。それぞれの神学の派の人たちも同じ。その枠の中で日々精進に励んでいる。

つまり進化論を選び取った時点で彼らのコースは決まっている。これは私たちの側も同じ。神を選び取った時点で私たちのコースは決まっている。神学の派も同じ。それぞれのコースに入れ込めば入れ込むほど軌道修正は困難となる。そしてそれぞれの実を結ぶに至る。しかし選び取るその瞬間にどちらを選ぶかは紙一重なのだ。ここに働くファクターは一体何なのだろう?なぜ私は神を選んだのだろうか?

ここまで来ると、私の頭はキャパを超える。一般恩寵によるのか、特殊恩寵によるのか、どうもそういった人間の言葉による"説明"はピンと来ない。ただ願うのは、時々において私が何を選ぶか、神の目から見て誤ることがないことを祈るだけ。ある人が言った:信仰とは選択である、と。

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