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教会から裁きが始まる
投稿日 : 2006/12/12 23:41
投稿者 神の娘#789
参照先
はじめまして。
メッセージを聞かせていただいている者です。
ルーク氏のメッセージを聞いていると神の大いなる恵みにただただ感謝で喜びがあふれてきます。

ところが1点心にひっかかりを覚えることがあり質問させていただきました。
クリスチャンはもう裁かれないという立場でルーク氏は語られていますが、聖書には「教会から裁きが始まる」やマタイ7.21にあるように主の御心を行うものが入るとクリスチャンでも裁きに合うととれる御言葉があります。

そのことに関してルーク氏はどのように解釈なさっていますか?
ぜひお聞かせ願えないでしょうか?よろしくお願いします。
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Re: 教会から裁きが始まる
投稿日 : 2006/12/30 21:48
投稿者 イザヤ・ベン・ハー
参照先
今回の牧師の事件など、確かにキリスト教界の腐敗が暴かれ始めたのかも知れません。それにしてもみっともないことです。Lukeさんがメッセージで言われるように、覚悟が要る時代なのでしょうか。


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Re: 教会から裁きが始まる
投稿日 : 2006/12/14 13:25
投稿者 神の娘#789
参照先
お返事ありがとうございました。
参照として示していただいたところを読んで、理解を深めようと思います。

ありがとうございました。
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Re: 教会から裁きが始まる
投稿日 : 2006/12/13 12:16
投稿者 Luke
参照先
はじめまして。

おっしゃるとおりです。クリスチャンも裁きを受けます。クリスチャンの立つ裁きの座はキリストの御座(ベマ)です(2コリント5:10)。白い御座(黙示20:11)の裁きではありません。

前者は報酬(千年期の王国に入ること)を受けるための査定であり、木、草、藁の仕事は焼かれてしまいますし、御国の外で歯軋りする者もあります。が、これは滅びではありません。再履修と言うか、訓練です。後者は滅びか救いかの裁きであり、子羊の書に名のある者はパスします。このあたりはウォッチマン・ニーの『神の福音』に詳細に論じてあります。またバイブルQ&Aでもスレ(http://www.kingdomfellowship.com/cgi-bin/topic/topics.cgi?mode=res&no=21)があったと思います。

そして現在においても聖書は明確に「人は自分が撒いた物を刈り取る」と書いてあります。その意味で教会が清められるための裁きがあるわけです。しかしこれは自ら招く裁き、あるいは動機の不純や頑なさに対する神の愛の配慮です。これで私たちは枝の剪定をされ、洗練されるわけです。本来キリストにとどまり、信仰によって生きればそのような裁きを得る必要はありません。が、私たちの肉は疼くのですね。特に良いことをしようとして、あるいは神に仕えようとして、肉を用いるわけです。そして何かを刈り取ります。

このような刈り取りから解放されるのはただちに悔い改めることです。私の何かを主張し、達成を求めるのではなく、すでになされた事に頼ること。すでに罪は赦されておりますから、安心して告白して、離れればよいわけです。ローマー書8:1に「今や、キリストイエスにある者は決して罪に定められることはない」からです。

マタイ7:21については、千年期の御国を得るかどうかの問題です。詳細はニーの本をご参照ください。かなりハードコアな真理が説かれています。ここにも「天の国」と言うスレが立っていましたね。ご参照ください。
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