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はじめまして。
> 祭司制度がレビからイエス様に変更になったから律法も石の律法から心の律法に変わり、心の律法を生きることを聖霊が可能にして下さるという理解でいいのでしょうか。
そのとおりです。
> ICHIROさんがおっしゃるとおり、わたしもいのちの御霊の法則をつかむコツがまだよく分かりません。でも古い律法を自分で守ろうとする努力からは解放されつつあります。楽になってきています。
習うより慣れろ、です。
> でももう一度確認させてください。これまで何度もアレをするな、コレをせよと言われ続けてきたので、不安なのです。古い律法を守る義務はクリスチャンにはないのですね。
御言葉を引用しましょう:
ローマ7:2-4 それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。――私は律法を知っている人々に言っているのです。―― 夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。私の兄弟たちよ。それと同じように、あなたがたも、キリストのからだによって、律法に対しては死んでいるのです。それは、あなたがたが他の人、すなわち死者の中からよみがえった方と結ばれて、神のために実を結ぶようになるためです。
日本人は律法の民ではありませんが、日本人の病理である強迫性によって自家製の律法を作ります。これに対しては
ガラテヤ4:3,9 私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。・・・ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。
コロサイ2:20-29 もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、「すがるな。味わうな。さわるな。」というような定めに縛られるのですか。そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。
ここにある「幼稚な教え」とは原語ではある種の霊的力を意味します。世を支配する堕落天使は空中にいますが、彼らに啓発された人間的教えです。これらの霊的影響から私達は解放されているのです。
聖書が明示的に禁じているのは4つです:偶像礼拝、不品行、絞め殺した物を食べること、生血を飲むこと。ほかはすべては許されているが、すべてが益になるわけではない、の判断によってください。内なる油がすべてを教えてくださいます。 |