最も本質的なこと

−キリストのいのち−



「クリスチャンとは?」−きわめて単純、かつ初歩的、しかし回答が困難な質問である。いわく正統な教会で正当な資格を持つ牧師から洗礼を授けられ、正しい聖書解釈にのっとり、使徒信条に忠実で、礼拝出席を守り、十一献金を忠実に守り、奉仕と伝道に熱心にいそしむ人・・・こう言われるとクリスチャンになることは何と勇気のいることであり、なった後はさぞかし大変なことであろうと、思われるであろうし、現にそう牧師も教え、信徒もそうあろうと努め、少なからず疲れているのがほとんどの日本の教会のあり方である(汗)。

主は言われた、「誰でも新しく生まれなければ神の国に入ることはできない」と。言い換えれば、神の国に入るとは新しく生まれることとなる。ニコデモはここで「人はどうして歳をとってから再び生まれることができるのか」と質問して、主にたしなめられている。次元がまったく異なるのである。主の言われた誕生は霊の誕生である。私たちの霊はすでに御霊によって超自然的に再生され、神に対して生きてる。この霊は神の霊と同じ性質を持ち、いまや私たちは主とひとつの霊にされている。私たち人のうちに神が住まうのであり、私たちは人として神の御性質に与っている。

すなわちクリスチャンとは霊の再生された神を内に宿している存在である。これがクリスチャンの定義であり、それは"正しい信条告白"とか、"正しい聖書解釈"によらないことである。キリストを信じた時、まさにそのことによってのみ、私たちの霊は再生され、御霊の内住を得た。それは父、子、聖霊の神が内に住んでくださることであり、計り知れない栄光である。キリストは私たちのいのちとなり、私たちはこのいのちによって生きるものとされた。これがクリスチャンのすべてである。このいのちを私たちに得させるために、キリストは死と復活を経られたのである(注)
(注)「ユダヤ人と日本人2」でも触れましたが、最近得たイスラエル現地の情報によるといわゆるメシアニック・ジューにも、イエシュアをメシアと信じるが神の子と認めない立場と、イエシュアをメシアにして神の子と認める立場があるそうです。前者は1ヨハネ4:2,3により偽りの霊によるものであり、後者は別にメシアニック・ジューなどと称する必要はなく、私たちと同じクリスチャンです。ペテロやヤコブもクリスチャンと称されたのです。あえて別の称号を唱えるところに彼らの肉の誇りを担保しようとする欺瞞性があります(ガラテヤ6:12)。いのちの面から見れば、メシアニック・ジューの概念はナンセンスなのです。
「リバ新」上でSDA(セブンスデイ・アドヴェンティスト)についての検証がなされているが、表面上の教理や実行の問題の検証ももちろんであるが、まず霊の再生を受け、神がそのうちにいのちとして住まいを得ているかどうか、このレベルの検証が本質である。さらにこれはSDAに限らず、カルト的要素を持つ団体についても同じである。正統派教会の"会員"であっても、霊の再生を受けていない"名目クリスチャン"もいるであろうし、逆に異端的教会でも霊の再生を受けている真のクリスチャンもいるであろう。また同紙にて谷口氏も言っておられたが、いわゆる正統派においても、例えば千年王国や再臨と携挙の時期などについても解釈が様々である。

そこで私がいつも不思議に思うのは、例えばディスペンセイション主義者(前千年期再臨説)と再建主義者(後千年期再臨説)の間での議論の仕方、あるいは前艱難期携挙説者と艱難後期携挙説者の間の、さらには福音派と聖霊派のそのあり方である(注)。つまりその互いの説の正否を論じるに留まらず、相手の人格までも云々し合い、自説を認めるか否定するかの踏み絵的二者択一的選択を互いに迫り合う姿勢である。これは親イスラエル主義者と反イスラエル主義者、あるいは親天皇主義者と反天皇主義者の間での議論についても同様である。だからけっして接点は見出し得ない。互いに自説が正統であり、相手は異端だからである。自分は霊的に目が開かれており、相手はいないのである。このように互いに相手の言質を取り、有無を言わせずに徹底的にねじ伏せるかのような姿勢には、少々辟易する(汗)。この精神病理についてはすでに述べている。
(注)私は聖霊のバプテスマも受け、異言でも祈りますが、いわゆる日本の聖霊派ではありません。また福音派でもありません。英国のコリンも元々聖公会の司祭であり、アズサ・ストリート(ペンテコステ運動)とは何ら関係ありません。ちなみに私は聖霊のバプテスマはかなり初期に受けていますが、異言で祈るようになったのはかなり後です。
なにゆえにこのような解釈上の相違によって、様々の分裂が生まれ、キリストの体が引き裂かれているのか、実はこの主張のウラには強烈な魂のエネルギーの注ぎを受けた自己(self)が生きている。一般に意見とは自己の表現と言える。だから意見を否定されると、自己を否定された感じに陥る。要するに"遊び"があまりにもない。これが日本人の強迫傾向を生み、問題をこじらせる原因である。正当な自我の確立が未熟な日本人は、どうしても冷静な議論ができない。つい熱くなりすぎるのである。そして互いの脆弱な自我にタッチして、傷を付け合うのである。残念ながら聖書の解釈をめぐる議論でもこの日本人の弱点が露呈する。実は御霊が真理を語る時は、このような主張の仕方はなさらない。私は主張の"正しさ"よりも、その主張のなされる"心(霊)の状態"に関心がある(ルカ9:55欄外注)。真理は仮に私たちが擁護しなくても、真理自らがその真理であることを証しするのである(注)真理による歩みとは"正しい聖書解釈による歩み"ではない。また御言葉に服するとは、"正しい聖書解釈に服する"ことでもない。
(注)偽りの教えが問題であるのは、霊的いのちの成長と解放を阻害するからです。結局これらのそれぞれの立場や解釈の主張は、信仰の歩みの条件として、キリスト以外に何かを付け加えることであり、ユダヤ人が信仰に律法を混ぜようとしたことと同じです。特定の問題に対して、「クリスチャンはかくかくしかじかであるべきだ」、といった主張は、たとえそれが見かけ上聖書的であろうとも、信仰と恵に対して何かを混ぜることです。それは律法学者のパン種を混入することであり、必ずそれは発酵して、キリストの体のひとつを損ないます。パウロはガラテヤ書でこのことを痛烈に暴露し、恵から落ちることのないように奨励しています。
この夏英国KFMFaith Campに家族で参加する。久しぶりで現地の友人とも再会でき、また在英中のはちこさん御家族ともご一緒できる。今年はKFM25周年にして、Camp20周年の記念すべき年である。約10,000人がテントやキャラバンでキャンプをしつつ1週間のセレブレーションをエンジョイする。参加者のバックグラウンドは様々で、その神学的背景も千差万別である。しかしそこには御霊によるひとつがあり、キリストのいのちの豊かな表現がある。KFMではいわゆる聖書解釈の一致などはあまり問題にならないし、再臨や携挙の時期についてもほとんど話題とならない。もちろん主を待ち望む気持ちは強い。これはメニュのビデオを見るとお分かりいただけるが、KFRCはいわゆる神学を教えるカレッジではなく、御霊に満たされ、いのちを共有することを導く所だからである。ただこの一点を大切にしているのがKFMである。

すでに「リバ新」の論説でも述べたが、内に生きるキリストのいのちの交換によってのみ、御体のひとつは実現する。聖書解釈を互いに主張し合い、その一致を御体のひとつの根拠としようとするならば、御体のひとつの実現は永遠に無理である。私の聖書理解のフレームワークは、創世記で提示されたとおり、いのちの道か善悪の道かの二つである。律法がだめなのもいのちを与えないからである。神の当初のご計画はこのいのちをインプラントすることであり、新天新地においてはいのちだけの世界が展開する。教会とイスラエルの関係もいのちのディスペンセイションから見ている。この意味で、私のあらゆる評価の基準はいのちを育てるか、引き裂くかという点である。現在の日本のキリスト教会は正しい聖書解釈や、立派な神学はあるかもしれないが、あまりにもいのちが枯渇しているというのが私の印象である。クリスチャンがその原点に帰るべき時である。(02.04.26)