預言とは




このテーマについてはあらかじめ注意を要する点があります(詳細はこちらも参照のこと)。それはここで言う「預言」とは必ずしも「予言」ではありません。「」とは文字通り預かることであって、よって「預言」とは神からの言葉を預かって語り出すことです。これに対して最近流行のノストラダムスの「予言」といった場合は、予め語ること、すなわち将来の起こるべき事柄を語り出すことです。

聖書にはもちろん将来起きるであろう事柄についても豊富に予言されておりますから、真に神による予言であれば、預言の中に当然のこととして含まれております。大切なことは預言とは現在のことであれ、将来のことであれ、神の御旨を受け取って語り出すことです。

神は人間を造られたとき、親しい交わりを持つことを意図されました。つまり神は絶えず愛と慈しみの気持ちをいただきつつ人間に語りかけ、人間がその語り掛けに応じて神を愛し、神に従うことを願われたのです。ところが人はを犯し、神との交わりから分離されて、一人自分の力で生きざるを得ないことになりました。しかし神は人を愛しておられますから、絶えず人に対して語りかけておられるのです。

いにしえの昔においては、例えばノアは「箱舟を造れ」という神の声を聞いて、それを信じてそれに従い、彼とその家族は洪水を免れました。彼はどのようにして神の声を聞いたのでしょう?また「信仰の父」と呼ばれているアブラハムは、「生まれた地を離れて、私の示す地に生きなさい。そこであなたを祝福します」という神の語りかけを聞き、それに応じて行き先も知らずに旅立ったのでした。これが彼の信仰であり、この信仰のゆえに神に義とされ、アブラハムは祝福を得ました。この時彼はどのようにして神の声を聞いたのでしょう?どうもこの当時は人は媒介者なしに直接的に神の声を聞くことができたようです。

時が下り、人の罪が優勢となり、神からの分離が甚だしくなるにつれ、人はますます神から離れ、以前のように直接的に神の語りかけを聞くことができなくなっていきました。そのような中で起こされたのが、預言者という存在です。この意味での最初の預言者はサムエルといえますが、彼は最初の王サウルやかの有名なダビデ王に神の言葉を取り次ぎました。

そしてダビデの子ソロモンの死後、王国はイスラエル(北王国)とユダ(南王国)に分裂し、霊的にも政治的にも混迷を深める中において、何人もの預言者が警告の言葉や励ましの言葉を神から受けて語りました。しかしその言葉に応じた人々は少なく、ついにイスラエルはアッシリヤに(BC721)、ユダはバビロンによって(BC586)滅ぼされました。そしてイエスが来られるまでの約300年間ほどは神の声はほとんど聞かれなくなりました。

時至ってイエスがついに地上に来てくださいました。イエスはその本質において神の言(ロゴス)たるお方ですから、彼の語る言葉はみな父なる神の言葉でした。彼は「わたしは自分から話すのではなく、父から聞くままを語る」と証されました。その意味で旧約聖書において出現した預言者たちはいわばこの神の言である真の預言者といえるイエスの予型(タイプ)なのです。

したがって新約の現在においては旧約聖書における意味での預言者は不要であると言えます。へブル書には「神は昔は預言者によって語ったが、今は御子によって語る」とあります。よって自分を預言者と称する人々の言葉には十分に注意をする必要があります。ただし、もちろん聖書の言葉を解き明かしたり、それぞれの教会の歩みを導く言葉を提供する機能を持つ存在は必要です。問題は彼らがどの霊によって語っているのかにあります。ヨハネも、すべての言葉を信じないで、その背後の霊を調べなさいと警告しています(1ヨハネ書簡4:1)。

現在聖霊は書かれた神の言葉である聖書に反することは決して語られません。その意味で一人一人が神の言葉を学び、神の言葉に責任を持って応じていく必要があります。

●参考:預言の霊的機序
(C)唐沢治

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