* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
下の桜はイイでしょう?私たちはこのような雰囲気に包まれるとき、そのクオリア(ある種の質感)を味わうことができます。脳が現実と触れるとき、言語や数式に収まりきらない「何か」があるのです。これがクオリアです。数学を用いて現実を記述するとき、何かが零れ落ちるのです。本書は、このような脳と現実との関わり方、クオリアの生成するメカニズム、さらに仮想と現実の問題を論じています。
信仰、すなわち神と私たちの関わりも同じなんですね。言語によって神をいかに正確に記述し、神学の体系を作り上げたところで、そこにはイエスの魅力と香りはありません。人間の言語からもれてしまう要素、それがイエスのクオリアです。それはいのちとも言えます。
禅学の大家鈴木大拙は芭蕉の句
よく見れば、なずな花咲く、垣根かな
と、テニスンの花を取って、分解して、花の精緻な作りを述べた文章を比較して言っている。東洋的姿勢は対象(なずな)と一体になることであるが(主客不可分)、西洋科学では対象と自己を切り離し分析することにより、いのちを殺すのだ、と。
私たちはいのちに触れるとき、それが自然のものであっても、神のクオリアに触れるのです。それが私たちを癒し、私たちを生かします。キリストのいのちはどれほどに私たちを生かすことでしょう。無益な議論や論争に明け暮れるキリスト教から離れて、イエスのクオリアを楽しみましょう。
あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。