* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
前口上−ええと、本日、私儀の誕生日とのことで、各方面よりお祝いの言葉をいただきまして、恐縮至極であります。どこかで言いましたっけ?とにかく、主にありて感謝申し上げる次第です。(気持ち的にはやや複雑なのですが・・・。)
今、教会史をざっと眺めております。黙示録にも予言的教会歴史が描かれているのですが、時系列の中で起きている教会歴史ですね。まあ、Philip Schaffの著書などを繰るべきなのでしょうが、時間があまりありませんので、あくまでも「ざっと」です。一言で言えば、下で述べたキリストの固定化による互いの異端排除の歴史・・・。これに政治が絡むといわゆる西洋史が構成されるわけ。
で、面白かったのが、アレキサンドリアのオリゲネス(185-254)の人間論。彼は人間が、肉、魂、霊の3部分からなるとしているわけ(Trichotomy)。もちろん御言葉にそう書いてあるわけですが。で、この魂(psyche)が知性・感情・意志からなることは現代の脳科学でも実証的に説明される(詳細はこちら)。ここで問題となるが、果たしてこれらの精神機能が大脳の物理化学的現象へと還元されるのかどうかと言う点。これについては昔から議論されてきたことであるが、例えばノーベル賞学者の神経生理学者エックルズは、精神活動は大脳の物理化学的現象に還元し得ず、サイコン(psyche:魂)と物質との相互作用から生じるとして、当時としてはサイエンスから逸脱せざるを得なかった。しかし最近では利根川博士ら、他の分野を制覇した学者たちが精神の問題を考えており、ようやくサイエンスの一分野として確立されつつある(→その一例)。前に触れたクオリアの問題もそのひとつ。
さて、ここで問題となるのが、もし精神現象を大脳の物理化学的現象に還元すると、人間の精神活動とコンピューターには本質的違いはなくなり、複雑さの度合いの違いとなってしまう。これでは決定論そのものであり(カルヴァンは喜ぶかも)、では、人間の自由意志とは何かと言う問題が起こるわけ。まあ、前にも述べたようにカルヴァンvsアルミニウス的なill-posed(無意味)な神学的議論はさて置いて、大脳生理学的に見るならば、自由意志は大脳のニューロン・ネットワークの電流とシナプスでの神経伝達物質の反応の「ゆらぎ」によるとするしかなくなるわけ。現にペンローズがマイクロ・チューブによる量子脳理論を提唱している。すると私がイエスを信じたことも、量子物理化学的ゆらぎによるわけだ。簡単に言えば、偶然の産物。
しかし聖書では人間は単に物理化学的存在のみではなく、霊的存在であることを啓示(これは証明できない、一方通行的提示)している。つまり人間の体(soma)と霊(pneuma)の接点として魂(psyche)が生じたわけだ(創世記2:8)。この辺りはG.H.ペンバーが詳細に論じている。この立場に立つならば、サイエンスとなりえない霊の領域と大脳(物質)の相互作用として魂の機能、つまり精神活動がなされることになる(エックルズ的立場)。すると霊と物質はどのように相互作用するのかという問題が生じるが、これはまた難題なので、とりあえず置いておく。
ここで自由意志を論じる際には、欲求の問題を避けることはできない。聖書が啓示する人間の欲求についてはガラテヤ書が次のように言う:
肉は霊に反して欲し、霊は肉に反して欲するからである。−岩波訳
ここで「欲する」と訳された原語は"epithumeo"であり、別の箇所では「情欲(lust)」とも訳されている(マタイ5:28など)。要するに相当に強い意味であり、医学的には「情動する/欲動する」と訳せる。つまり肉には固有の欲動があり、霊にも固有の欲動がある。 ここの意味をローマ書7:15,19と同じ意味で解することがよくなされるが、私の著書『真理はあなたを自由にする』でも指摘したが、これは誤解である(ニーも『標準』の英語版で明確に指摘している。和訳では曖昧。ローマ書は3つの法則の対立、ガラテヤ書は御霊と肉の対立)。例えばVincentは として、"so that"を結果と訳することは不適としている。つまり私たちが肉に従えば、肉は御霊を抑圧して、御霊の欲することができなくなり、逆もまたしかりだと言うのである。よってパウロは前節で と言う。ここに自由意志が介入する。もっと言えば、肉の欲動を抑えるのは霊であると言うわけ。肉(Gk:sarx、En:flesh)は大脳生理学的には辺縁系あたりの海馬に蓄えられている情動と記憶の複合体がその実体である私は考えている。私たちの肉体は未だ古い創造に属するものであるから、この大脳辺縁系の問題を避けては通れない。この意味でいわゆるホーリネスの「全き聖化」なる教えなどがいかに人間を無視したものであるかは以前にも指摘した。それは人間性疎外であり、人をある種の狂気へともたらす(これはネット上およびリアルの"壊れたクリスチャン"を見れば分かるでしょう)。キリスト教倫理や教育では決して解決できない課題なのだ。「聖化」を「肉の欲動の消滅」と理解したら、これはもう人生暗黒、まさに人を狂わせるでしょう。パウロはローマ7章で、主イエスに感謝した後に、 と証している。どこぞの実行では、自分の罪を紙に書いて、木の十字架に釘で打ちつけるそうだが、まさにナンセンスを絵に描いている。Are you with me? とあるとおりです。
Commented by 通行人 URL2007年04月05日(木)23:56
松沢牧師はルークさんが言ってたとおり、覚醒剤だったようです。 こんにちは。 >通行人さま (追伸です) タフミルの奇行、自殺の問題は薬害の懸念ありです。 >通行人さま 松沢牧師の件は残念ですね。彼らは薬物中毒者たちの援助をしていたようですが、ミイラ取りがミイラになる典型でしょう。関係者の間での汚染がないことを願いますが。 関係者の一番候補はAH師ですが、彼の近況どなたかご存知ですか? 彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。 >みことばさま 返信ありがとうございます。 ウェスレーについては次のような評価がありますね。実際、それらは互いに対立し合っており、その結果、欲することを、あなたがたは行えなくなるであろう。−ibid.
・So that (ἵνα)−
Connect with these are contrary, etc. Ἵνα does not express result, but purpose, to the end that, - the purpose of the two contending desires. The intent of each principle in opposing the other is to prevent man's doing what the other principle moves him to do.
・Cannot do (μὴ ποιῆτε)−
A mistake, growing out of the misinterpretation of ἵνα noted above. Rather, each works to the end that ye may not do, etc.
・The things that ye would (ἃ ἐὰν θέλητε)−
The things which you will to do under the influence of either of the two contending principles. There is a mutual conflict of two powers. If one wills to do good, he is opposed by the flesh: if to do evil, by the Spirit.
ギリシャ文字がうまく出ていませんが。あなたがたは霊によって歩みなさい。そうすれば肉の欲望を満たすことはないであろう。
かくして私自身は、理性においては神の律法に隷属しているのだが、しかし肉においては罪の法則に隷属しているのである。
さて、ここでのポイントは、肉が欲動すること自体、また霊が欲動すること自体、これらは私たちの自由意志の及ばない領域の現象なのだ!お分かりになります。これが分かれば、ホーリネスの人々のようなクルシチャン(苦しちゃん)状態から解放されるでしょう。もっと言えば私の責任ではないのです!私の責任は、肉の欲動と霊の欲動のどちらを選択するか。ここで霊を選択するならば、ただちに十字架の死の力が働き(ローマ6:6)、肉を沈静化するでしょう。これが解放です。しかし肉を選ぶならば、霊は抑圧されるでしょう(1テサロニケ5:19)。これは内なる自責感と圧迫を生みます。
つまり肉の欲動そのものは大脳辺縁系の問題、もっと言えば深層心理(無意識)の領域の問題となり、私の意志が及ばないのです。私たちの魂はこの霊の欲動と肉の欲動が意識として実体化される場です。あなたはどちらを選びますか?これが私たちへのチャレンジです。そこで肉の思いは死であるが、霊の思いは命と平和です−岩波訳
以上が聖書に沿った実存的人間モデルです。私はこれを元に「霊精神身体医学(Pneuma-Psycho-Somatic Medicine)」を提唱しているわけです。すでに97年にWHOでも「霊的健康」と言う概念を盛り込んできています。ただし、現在のところ、これをサイエンスとして記述することがはたして可能なのか不可能なのか、それすらも分かっていません。もっと言えば、物理化学的実在である脳がそれとシンクロして生じさえる脳機能(精神)を理解し得るか否か、これも解けていません。
・・・というわけで、オリゲネスからつい話が膨らんでしまいましたが、「精神とは何ぞや」−私はこれをつらつらと高校時代、いや、思い起すと小学校4年位から考えているわけで、聖書の啓示によって体験的な理解は得たのです。が、思想として記述し得ても、サイエンス化することができていない。が、ぼーっと考えていると人生は退屈ということがないのですね。で、ついに○○歳・・・。昔ならばもうお終いの歳なのであります。少年老い易く、学なり難し。
被疑者死亡で書類送検だそうです。松沢師もホーリネスでしたね。
今回の記事も、たいへん興味深く拝見し、また、教えられました。感謝します。
今後も、さらに「日々のココロ」を楽しみにしております。
あらま、覚せい剤ですか。。。。。
よろしかったらニュースソース明かしてもらえませんか?
>この意味でいわゆるホーリネスの「全き聖化」なる教えなどがいかに人間を無視したものであるかは・・・それは人間性疎外であり、人をある種の狂気へともたらす。
この部分(と、前後)は特に、(以前と同じく)教えられます。「非常に」重要なご指摘であると思います。(しかし、多くの教職の先生方は、「実は、気付いていない」か、あるいは、「完全に、勘違いを犯している」ように思えてなりません。当然、犠牲者をも生むことになるわけでしょうが、それが、とても心配です。。。。)
精神薬パキシルによる自殺企図の副作用問題があまり知られていないようです。精神薬は麻薬だと言うのが小生の認識です。かといって飲まずにいると離脱作用の苦しさは気が狂うほどです。
松沢牧師は予想通りですが、私はさらに覚醒剤汚染が関係者の間に広がっていないかと恐れています。
>Skyさま
そうですね、人間性を無視した「神学」、あるいはもっと広く「キリスト教」は、人を狂気へと導きます。これは歴史が証明しています。ニッポンキリスト教にビョウキの人があまりにも多いのもその証明でしょう。
ルターにせよ、カルヴァンにせよ、ラッシュドゥーニーにせよ、ウェスレーにせよ、彼らの問題点は人間性を知らないことです。まあ、もっとも大脳生理学も精神病理学も知らなかったでしょうから、無理もないことですが。
下でも指摘しましたが、ある真理を回復したのは功績ですが、しかし彼らは自らの教えを先鋭化してしまうのです。日本赤軍と同様にですね。これが神がかり的狂気を生みます。
その意味でクリスチャンを「牧師」や「儀式」や「組織」や「神学」、さらには「キリスト教」から解き放つことは、クリスチャン医師であるSkyさんや私たちの務めかも知れません。
(こちらからもリンクをかけさせていただきました。)
少々きついなあと感じましたが。
また、リンクしていただきまして感謝します。リンクのご迷惑にならないように、内容にも心してゆきたいと思います。
→http://www.datarat.net/DR/FramesLexGloss.html
・Perfectionism
Religion focused upon human striving for moral righteousness rather than Christ's atonement and His perfect life.
Perfectionism was taught by John Wesley, and is also a doctrine of the Roman false church. It's the heresy that an individual can free themselves from all sinful behavior in this world.
Perfectionism is only a viable theory when coupled with another false doctrine: Conditional Perseverance.That way -when a perfected person is examined and found wanting- they can claim they were entirely sanctified but subsequently lost it !
おそらくウェスレーは強迫神経症的パーソナリティだったのでしょう。神学はその人の人格傾向の反映なのです。よって「学」にはなり得ません。(またまた、その筋の人に怒られるだろうなあ〜)
>Skyさま
いえいえ、こちらこそ勝手に書いておりますので、ご迷惑になったらお知らせ下さい。