ダビデ

−神に愛でられし者−




1.人物像

ダビデの意味は不明です。ユダ族のエッサイの8人兄弟の末の息子で、例のミケランジェロの彫刻でも有名なように、「血色の良い顔で、目が美しく、姿も立派」でした(1サムエル16:12)。彼は羊飼いを生業としていましたが、音楽や詩作に長けており、旧約聖書の詩篇の多くは彼の作によるものです。聖書には「琴が上手で勇士であり、戦士です。ことばには分別があり、体格も良い」(1サムエル16:18)とあります。彼は戦士としても有能であったばかりではなく、神に対する霊的洞察力も豊かでした。誕生はB.C.1040、サウル王の後イスラエル王国の2代目の王としてB.C.1010から970年ごろまでの約40年間統治しました。



2.主要なエピソードとその霊的意義

2.1.ゴリアテとの対決

物 語

イスラエルの軍隊はペリシテの軍隊と対峙した際、その巨人ゴリヤテによる脅しのもとで全員が萎縮し、戦況は硬直しておりました。そのような時に少年ダビデは物資の運搬と兄弟たちの安否を知るために戦地へと赴きました。イスラエルの軍隊がゴリヤテによって縮み上がっているのを見て、少年ダビデは「この割礼を受けていないペリシテ人が何者か。生ける神の陣をなぶるとは」と憤慨し、「私は万軍の主の御名によってお前に立ち向かう。きょう、主はお前を私の手に渡される」と信仰宣言をし、石投げだけで彼に向かい、見事に一発で仕留めました。この戦果によってイスラエル軍は勇気を奮い起こされ、また少年ダビデは初代王サウルの目に留まりました(B.C.1025)。

霊的意義

イスラエルの戦士たちはみなゴリヤテの巨大さとその言葉による脅迫によって縮み上がっておりましたが、ダビデはそのような外観を見ませんでした。彼が見ていたのはただ彼の主である神であるお方だけでした。そして主に対する信仰によって彼は自分が勝利を得る前にすでに自分の勝利を確信し、そのことを宣言したのです。そしてその通りに事実も従ったのでした。イエスも言われました、「祈り求めたことはすでにかなえられたと信じなさい、そうすればその通りになる」と。また「義人は目に見えるものによらず、信仰によって生きる」とあり、「人は心に信じたことを口が語るものである」とあるとおりです。私たちは事実に屈する者ではなく、信仰によって事実を支配する者なのです。


2.2.サウルによる迫害

物 語

サウルの目に留まったダビデは彼の下で働き、むしろサウル自身よりも戦果を上げ、サムエルからも次の王としての油注ぎを受け、人々からは「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」などと言われ、徐々にサウルの嫉妬を買うようになりました。神に逆らって悪霊の影響を受けるようになったサウルは、ダビデがいずれ自分の地位を脅かすようになることを恐れ、ダビデを殺そうと図ります。しかしダビデはサウルの子ヨナタンの助けなどによって何度も間一髪のところで逃れ、荒野での逃亡放浪生活を余儀なくされました。その間サウルを殺すこともできる機会が数回あったにも関わらず、ダビデはサウルを神の油注がれた王と認め、自ら手を下すことはありませんでした。そのような中で徐々にダビデに味方する者が増えて行きました。そしてついにサウルは自らの高ぶりと不従順の結果を身に招き、戦争において非業の死を遂げます。ダビデはこの荒野でのいわば神による訓練の時を経て、イスラエルの王としての資質を磨かれていきました。

霊的意義

ダビデは次期王としての油注ぎを受けた(B.C.1025)にも関わらず、初代王サウルの嫉妬心から困難な時を経ました。しかしその間にもあくまでも神の主権を認め、それに服し、たとえ自分を殺そうとしている者であっても、神が立てられた王を自らの手で殺すことはしませんでした。ダビデはあくまでも神に信頼し、神の御手にすべてを委ねていたのです。それどころか自分が王となった後も、自分を殺そうとしたサウルに敬意を表し、サウルの親族に暖かい配慮の手を差し伸べているのです。このような神の権威を認めることによる彼の徳の高さは、敵を愛せよと教え、十字架上で自ら十字架につけた人々のために「父よこれらの人々をゆるして下さい」と祈られたイエスにも通じる部分があります。


2.3.バテシバとの不倫


物 語

王となったダビデはその後反対者達をも治め、国は安定しました(B.C.1003)。そのようなある日宮殿の屋上から見えた湯浴みをする美女バテシバの裸体を見て、彼は彼女を得たいという誘惑を覚えました。そして王としての立場を用いて彼女を自らの寝所に招いて関係を持ったのです。そして彼女は妊娠しましたが、自らの不倫がばれることを恐れて、ダビデは彼女の夫である軍人ウリアにバテシバと寝るように勧めますが、彼はむしろ忠実に任務を果たすべきことを優先してそれを拒みます。

窮地に陥ったダビデは姦計を弄してウリアを前線へ送り、ウリアはその地で戦死します。このようにしてダビデはバテシバを自らの妻として迎え、彼女は第一子を産みますが、このことは神の怒りを買いました。神は預言者ナタンをつかわしてダビデを諌めますと、ダビデは自らの悪を指摘されて憤慨するようなことはなく、むしろ良心を刺されて、心の奥深くから悔い改めます。しかし第一子はダビデの行いの報いとして死にました。次に生まれる子がかの有名なソロモンです。そして、その後、ダビデ家には兄弟間の殺人や息子による反逆など、数々の試練が臨むのです。


霊的意義

人は苦難にある時には神を見上げ、神に頼り、神に従います。ところが一旦自分の置かれた環境が安定したり安逸に流れたりすると、つい誘惑を受け、それに従う傾向が出てきます。ダビデもそうでした。あれほどの分別と徳を持っていた彼が、美女を得るために忠実な部下である彼女の夫を姦計を弄して殺すといった恐るべき悪を行ったのです。しかしながらここでダビデと普通の権力者の違いは、ダビデは自らの悪を指摘されて、取り繕うことなく心から悔い改めるのです!普通の権力者ならばどうすることでしょうか?新聞に載る世の中の政治家を見れば分かります。

ダビデがこのような悪にも関わらず神から愛され続けた理由はこのような彼の心の真実さにあります。この時に書いたのが詩篇51編です。彼は自らの悪を隠すことなく、むしろ正直に告白し、神の赦しを求めています。そして正しい霊と心を立て直していただけるように願い求めるのです。彼はごく普通の男性でありました。誘惑を受け、それに従いました。殺人と姦淫という酷い罪を犯しました。しかし悔い改めたのです!神は心の真実、悔いた霊、そして砕かれた魂を軽んじられません。神は赦し、新しい正しい霊を立て直し、新しい出発を得させてださるのです!ただしダビデ家に振りかかった数々の試練のように、自分のなした罪の刈り取りは厳粛な事実です。



3.神の全計画における意義

マタイ1章の系図によるとダビデは父祖たちの最後であり、王国の最初の人物です。またエッサイの8(復活を表す)番目の子供でした。ダビデは、古き者の最後であり(最後のアダム)、新しき者の最初(第二の人)であったキリストの予表です。そしてそれは復活によりました。

ダビデはあくまでも神を第一とし、神に従い、そして神に愛されました。そればかりでなく、ダビデの王権はとこしえに続くという神の約束さえも得たのです。それはイエスがダビデの子孫から誕生することを意味していました。神とダビデの間に結ばれた契約はその王権と統治の永遠性でした。もちろんダビデは死にましたから、彼において実現はしませんでしたが、ダビデから約1000年後に誕生するイエスにおいて成就されるべき王権でした。したがって救い主(メシア)は別名ダビデの子とも呼ばれています。イエスご自身も自分ではその称号を口にされませんでしたが、人がご自分をそう呼ぶことを認知されました。

すなわちイエスはキリスト(油塗られた者)であり、ダビデの子孫であり、神とダビデの間の契約に基づいて、その王権と統治を永遠のものとして確立されるのです。ダビデの家系は救い主であると共に王の王であるイエスをこの世にもたらすために準備されたと言えます。究極的にイエスはその再臨においてこの地上においてもその永遠の王権と統治を確立されるのです。


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