1.人物像
サムエルとは「その名は神」の意味。エルカナの妻で、不妊の女ハンナの祈りに対する答えとして与えられました。彼女は不妊のために他の妻の軽蔑を受けますが、神に対してナジル人(注)の請願を立て子供を求めますと、その祈りに対して神は答え、サムエルが与えられます。したがってサムエルの生涯は誕生の時から主に対して聖別されたものでした。彼は祭司エリの下で育てられ、幼い頃より神の声を聞き、その召命を悟ります。
長じて、エリの息子たちの放蕩によってイスラエルはペリシテの攻撃を受けますが、最後の士師としてイスラエルを解放します。と同時に、最初の預言者として神の言葉を民に取り次ぎ、王を求める民の訴えを神にとりなし、サウルとダビデに油を注いで王政を確立します。また預言者の訓練所を創設して後継者を養成しました。彼の生涯はハンナの祈りによって開始され、神へと聖別されたものであり、彼自身も祈りによってあらゆる事柄に対処しました。一言で言うと祈りの人でした。
(注)ナジル人とは「聖別された人・捧げられた人」の意味で、神に対して特別に捧げられた者である。特徴は、@ぶどう酒と強い酒を絶つこと、A聖別されている期間は髪を切らないこと、B死体に近づかないこと、です。サムソン、サムエルがその代表的存在です。
2.主なエピソードとその霊的意義
2.1.誕生と召命
物 語
エルカナの妻ハンナは不妊の女だったために、彼のもう一人の妻ペニナによって蔑視され苦しめられていました。ハンナは悩み嘆いて主に訴え、男子を与えて下さるならばその子をナジル人として主のために聖別する請願をして、祈り求めました。その様を見ていた祭司エリは彼女が酒によっているものと勘違いしますが、真実を知って、彼女を祝福します。すると彼女は表情も晴れやかに自分の家に帰りますと、確かに男児が与えられました。これがサムエルです。ハンナはエリのもとにサムエルを委ね、主に捧げました。その当時は主の言葉が臨むことはまれでしたが、エリのもとで成長した少年サムエルはある夜主の声を聞きます。彼はエリが呼んだものと勘違いして彼のもとをたずねます。これが3回繰り返された後、エリは主に直接答えるようにサムエルに指示しますと、サムエルは主からの直接の託宣を受けますが、それはエリの家にとっては深刻な内容でした。こうしてサムエルには主が共におられ、その言葉は一つたりとも落ちることなく、成長します。
霊的意義
しばしば不妊の女に対して主は格別の配慮をなさり、その求めに応じて子供を授けます。それは神の栄光を明らかにするためであり、その子達はしばしば神の特別の召命を得て、特別の働きをします。サムエルもその典型的な例であり、彼は最後の士師とし、また最初の預言者として神の裁きを執行します。時代背景はすでに各部族がそれぞれの地に定着しており、士師による地域的なわざがなされてはいましたが、民の霊的士気は落ちており、それぞれが自分の目に正しいと思えることを行っていました(士師記21:25)。このような中で神の言葉が語られる機会もほとんどなく、一種の霊的無気力状態にありました。私たちクリスチャンもしばしばこのような状態に陥って、自分の道を自分勝手に歩む危険があります。このような状態において何にも増して必要なのは神の語りかけです。神の言葉を聞くことによって私たちの霊に命が吹き込まれ、信仰が息吹かれ、私たちは立ち上がることができます。そのために神は預言者を立てられました。今日でも神の言葉の聞くことのできない場所には霊的無気力がはびこりますが、神はそのような状況へと、人を通して御自身の言葉を語り込む預言者を起こされます。するとそこには神に捧げられるべき新しい命の誕生を見ることができます。
2.2.王政を確立する
物 語
一度はペリシテによって神の箱(契約の箱)が奪われるなどの事件を経て、サムエルは彼らを平定し、国は一応の安定を見ますが、彼の息子たちの行状はあまり良くありませんでした。そこに付け込んで、民は周囲の民族がそれぞれに王をいただている状況を見て、自分たちにも王を与えよ、とサムエルに求めます。当初サムエルは王制に対しては反対の姿勢を示しますが、主の言葉、「民が王を求めるのは、彼らの上に対する私の統治を拒むことである。王政を敷くことが彼らにとっての困難になることを警告しなさい」と言う託宣に従って、結局は王政を敷きます。その最初の王がベニヤミン族のキシュの子サウルであり、彼の人生はまさに栄光と悲劇に彩られるわけです。次にエッサイの8番目の子ダビデに油を注ぎ、サウルの後継者として任じます。こうしてダビデとソロモンの時代にイスラエルは栄華の極みを迎えるのですが、ソロモンの死後二つに分裂して、それぞれ主に対する不従順によって滅びに至ります。
霊的意義
王政はもともと神の選びの民にはふさわしくない制度でした。なぜなら彼らは直接に神の統治下にあるべき存在だったからです。しかし人は目に見えない存在に従うことはしばしば難しく、どうしても目に見える対象を求めてしまう傾向があります。古の昔においてはモーセがシナイ山に登っている間に民は金の子牛を造り、それを拝みました。今回も霊的な見方ではそれと同様です。また同時に周囲の国々と比較しても、遜色のない自分たちのあり方を求める意図もあったでしょう。しかし神はそのような民の求めをも用いて、救い主イエス・キリストの出現を迎えるための国を備えるのです。
王政は預言者サムエルによって設立されましたが、後になると、特にソロモン以降においては王たちの統治が乱れ、その影響を民がもろにかぶる形となり、預言者の役割は王を脇からサポートする周辺的な色彩を帯びるようになります。しばしば王たちは預言者にいさめられる場合が多くありましたが、たびたび彼らを拒否しました。この究極にユダヤ人は真の預言者イエスさえも拒否してしまうのです。
一般に組織は上に立つ者のパーソナリティを反映し、彼の一挙手一投足がその下にある人々の運命を左右するようになります。私たちも上に立つ者には従うように命じられていますが、統治者が神によって備えられた主権の領域に留まる限りは、その下にいる民は祝福を受けますが、いざその領域を逸脱すると、むしろ神の裁きにさらされることになるのです。この意味で王政は諸刃の剣と言え、人の上に立つ者の神の前での責任は誠に重いものがあるのです。まことの王政はイエス・キリストにおいて実現し、私たちは御子の王国の臣民であるのです。そのキリストの統治の下にあることは素晴らしいことです(コロサイ1:13)。
3.神の全計画における意義
アブラハムにおける神の祝福の約束、イサクにおける約束の子の実現、ヤコブにおける神の取り扱い、12人の子供たちにおける葛藤によるヨセフの苦難と栄光、モーセにおける出エジプト、ヨシュアによる良き地の獲得という流れの中で神の御計画は着々と成就します。ついに12部族への土地の割り当ても完成しますが、民はいつしか神の御旨を忘れて、それぞれ自分の目に良いと見えることを勝手に行い始めます。ここで神は各地に士師たちを立てますが、国家としてはまだバラバラの段階にあります。その士師による統治の最後がサムエルであり、同時に最初の預言者として神の言葉を民に伝達します。
神の御計画の究極はあくまでも御子イエスであって、彼こそ真の祭司であり、真の預言者であり、真の王である方です。すなわち旧約におけるこれらの職制はすべてイエスの職制を象徴するものであって、あくまでもその実体はイエスにおいて実現されるわけです。サムエルにおいては預言者としての働き、および王政を確立する働きを見ますが、後のダビデにおいて来るべきイエスの王職の栄光の様を見ることができます。祭司にしろ、預言者にしろ、王にしろ、すべては神の地上における統治のための職制であり、その実際は新約のイエスにあるわけです。
この意味でサムエルの働きは、来るべきイエスの職制の霊的意義を目に見える形で提示するための旧約の職制を用意する過渡期的な働きであって、歴史的に見たときの当時の民やサウルやダビデの失敗にもかかわらず、霊的にはただイエスの出現のための準備が着々となされていくのです。また私たちの歩みに対する適用という観点から見ますと、彼の個人史からは、神の御前での祝福と成功の鍵は神の言葉と祈りにあることを見ることができます(1サムエル3:21;12:23)。