エリシャ

−御霊による神の人−



1.人物像



エリシャとは「神は救い」の意味。エリヤによって預言者として召され、エリヤの昇天後、エリヤの霊の二つ分を継承した彼を通して神の不思議としるしが大胆になされました。北王国のアハブ、アハズヤ、ヨラム、イエフ(エフー)、エホアハズ、ヨアシュの諸王に仕えますが(BC.848-797)、その働きはエリヤのように真っ向からバアルやイゼベルと対決すると言うスタイルではなく、彼の周りの人々のあらゆる必要に対して、信仰によって応えるというスタイルでした。エリヤが対決型のミニストリーと言うならば、エリシャはどちらかというと恵み型のミニストリーと言えます。またその生涯において生じた事件(王の盛衰など)は、すでにエリヤによって預言されたことの成就である場合が多く、またその業自体もエリヤの業と共通する要素が多々観察され、あたかもエリヤの置き換えと言った傾向が見られます。と言うよりは、エリヤの霊の二つ分を継承したエリシャは、エリヤの預言とその御業を完結した者と言えます。



2.主要なエピソードとその霊的意義



2.1.その召命と初期のわざ

物 語


エリヤによって外套をかけられ、エリヤの霊の二つ分を継承したエリシャは、エリコの預言者の仲間によっても、「彼にはエリヤの霊がとどまっている」と証しされました。エリコの町の水は悪く、土地は不毛であると町の人々の訴えに対して、エリシャはその水源に塩を入れ、主の言葉を告げますと、はたして水は清められました(2列王記2:19−22)。アハブの死後、その子ヨラムがイスラエルを治めるようになりますと、モアブの王がイスラエルに反旗を翻します。ここでエリシャは主がモアブをイスラエルに渡すことを預言し、主はこう言われるとして、次々に戦略を提示しました。はたしてその通りにモアブは敗走するのでした(2列王記3章)。

霊的意義


エリシャの華々しいデビューの場面と言えますが、ポイントは「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」と言う人々の証しにあります。私たちが神のために何かをしようとするとき、自分の策略や努力は決してお役に立ちません。それどころか、私たちの何かは神のわざを阻害しさえします。「エリヤの霊の二つ分」を受ける必要があるのです。そしてその事実は周りの人々によっても、「この人には御霊の油塗りがある」と明らかに認知されることができます。

この時悪い水も清められるしるしがなされますが、大切な点は、それは塩によることです。人間的な甘さは必ず発酵して酸くなりますが、神のわざは人間には塩辛いものによってなされます。この奇跡はかつての荒野の彷徨の時、マラの水に木(いのちを表します)を投げ入れると、苦い水が飲めるようになった奇跡を思い起こさせます(出エジプト15:25)。

そして彼の口には主の言葉が豊かに与えられ、彼の指示どおりに行うとき、イスラエルはモアブに対して勝利するのです。かつては預言者の口を通して部分に分けて語られた神は、今日真の預言者である御子によって語ります(ヘブル1:1−2)。その御子は御霊によって私たちの内にいます。この御霊のさやかな語りかけに信仰によって従うとき、勝利は私たちの上にとどまります。


2.2.数々のしるしと奇跡

物 語

(1)ある預言者の妻が夫を亡くし、借金の方に子供を取られそうになったとき、エリシャに助けを求めますと、彼は殻の壷を集めるように命じ、集まった壷に油を注ぎますと、壷はみな油で満たされ、空の壷もなくなりました。こうしてこの油を売って、女は借金の返済をし、その後の生活の糧も得られました。

(2)シュネムの裕福な女性がエリシャを"神の人"と認め、彼に部屋と燭台などを用意しました。エリシャはそのお礼として子供のなかった彼女に子供が生まれる預言をしますと、はたしてその通りに子供が与えられました。ところがその子が頭痛を訴えて死んでしまい、彼女はエリシャを訪ねますと、彼は彼女の心を深く憐れんで、その子と二人の部屋に入り、口を口、目と目、手を手に重ねてその子の上に横たわると、はたしてその子の体は再び温かくなりました。

(3)エリシャがギルガルに行った時のこと、預言者の仲間が採ってきた野生のうりで煮物を作りますと、その中には毒が入っていました。エリシャはその煮物の中に麦粉を入れますと、その毒は消えました。

(4)ある男が持ってきた初物のパン、大麦のパン20個、新しい穀物によって、エリシャは人々を養うことを命じますが、どの男はどうしてそんなことができましょうと言います。しかしエリシャは「彼らは食べきれずに残す」という預言をし、男がそれに従って配りますと、はたして100人は食べきれずに残しました。


霊的意義

これらのしるしと奇跡はエリシャが確かに"神の人"であることを証しし、その上に主の御霊が留まっていることの証明でした。エリシャは名もない女の必要から、多くの人々の必要に対しても、神の恵み深い対応によって応えるのです。シュネムの女はそのような彼の立ち居振舞いから、彼を"神の人"と認めるのでした。私たちも人々から同様の評価をもらえることを願います。

(1)当時借金の方に子供を売ることは行われていました。神はこのような冷たい仕打ちを禁じていました(申命記15:1−18)。しかしエリシャはこの女を憐んれで、何もないところから沢山の壷を油で一杯にしたのです私たちもかつては霊的な破産者でしたが、イエスの憐れみによって、霊的な借金をイエスが払ってくださり、空っぽの土の器であった私たちの内に聖霊を注ぎ、聖霊の油で一杯にしていただけたのです。この奇跡はイエスによってカナの結婚式でなされた6つの水の壷がぶどう酒に変えられるしるしを思い起こします。

(2)神の人の必要のために私たちが応えること、あるいは仕えることは幸いです。「誰でも一番小さな者にしたのは、私にしたのである」として、神はそのようなわざに必ず応えて下さいます。その神の応えはいのちの誕生です。私たちが神の人のために仕えるならば、必ずいのちがもたされます。そしてその子の死に対しても、エリヤと同様にその死と自分を一つにすることによってよみがえりの御業をなして下さいます。ここは「タリタ、クミ」と言って、少女をよみがえらせたイエスを彷彿とします。

(3)今日教会においても、"毒の入った野生の植物"をその無知にゆえに兄弟姉妹の食物の中に混ぜてしまうことがあります。これによって私たちの交わりもその毒によって阻害されます。"野生のもの"は必ず御霊の手によって毒を抜いていただく必要があるのです。麦粉は何の混じりけもないイエスの人性を象徴します(レビ2章)。私たちの間の毒もイエスの人性によって無毒化されるのです。

(4)この奇跡はまさにイエスが5つのパンと2匹の魚によって5千人を養った場面そのものです。私たちはしばしば自分の手持ちの資源しか見ることができませんが、神の資源に目を留めるとき、神は私たちの乏しい資源を豊かに祝福し、何倍にも増やして下さるのです。これによって私たちはいのちの養いに与ることができます。


2.3.ナアマンの癒し

物 語


アラムの王の軍司令官のナアマンは有能な軍人であり、王に重用されていましたが、らい病を患っていました。彼の召使にイスラエルから連れてこられた少女がおりましたが、彼女のアドヴァイスに従って、イスラエルの預言者のところに行くことを決断し、アラムの王からイスラエルの王宛の信書を送ります。イスラエルの王はこれを挑発であるとして衣を裂いて怒りますが、エリシャは自分の元にナアマンを連れてくるように指示します。

ナアマンは馬数頭と戦車でエリシャの家の前に来ますが、エリシャは使者を通して、ナアマンに対してヨルダン川に7度身を浸すことを命じますと、ナアマンは怒って帰りかけますが、家来のとりなしによって、そのとおりを行いますと、はたして彼の皮膚はきれいになるのでした。

ナアマンはエリシャに礼をする申し出をしますが、エリシャはこれを固辞します。ところがエリシャの僕のゲハジはナアマンの後を追い、偽ってナアマンから礼を受けてとりますが、エリシャの霊はそこにあり、すべてを見通しており、ゲハジはらい病にかかりエリシャの元を去るのでした。

霊的意義


アラムはイスラエルにとって敵です。その敵の有能な軍人の癒しにエリシャは仕えるのです。ここで大切な点は、イスラエルの少女がそこにいたことです。これはあらゆる国民を祝福することを願っておられる主の配剤と言えますが、興味深いことは、異邦のアラムの王はイスラエルの神に頼る意志を表明しているのに、イスラエルの王は「誰にらい病が癒せようか」と言って、それを挑発とみなして怒る点です。自らの資源に頼るとき、私たちも主のための働きに対して、このような反応をしばしば見せます。全能の神に頼るならば、もっと余裕のある対応をすることができるはずで、挑発と取ることもありません。

さて、ナアマンは少女のアドヴァイスに従ってエリシャの家の前に来ますが、この時の重装備が何ともアンヴァランスな印象を与えます。ここでナアマンの軍人としての誇りと、一方で敵地において自分の一番弱い部分を曝さなくてはならないと言う彼の葛藤を観察できます。しかもエリシャは使いの者を通して、ヨルダン川に7回身を浸せという、ナアマンから見れば人を馬鹿にしたようにも取れる処遇に対して怒り心頭に達するのです。人は自分の最も弱い部分の取り扱いを受けるとき、他人が重々しく振舞うべきであると思い込み、相手の態度に過敏になるものです。これは自分の何かに頼る際の不安定なプライドの裏返しです。尊大な自尊心を有する人ほど、実は傷つきやすくナイーヴなのです。

しかしナアマンは家来のとりなしによって、ナアマンの言葉に従います。大切な点はここにあります。神が求められるのは私たちの盲従ではなく、従順なのです。ナアマンは多分、自分はなんと言う馬鹿げたことを行っているだろうか、という思いがあったことと思いますし、おそらく7回目に身を浸すときにはある種の葛藤と緊張も経験していたと思います。しかし彼はこれを行いました。行いのない信仰は死んだものであり、信仰は行いによって全うされます(ヤコブ2:17,22)。ナアマンはこうして自らの従順の実を得ることができたのです。

このナアマンの癒しに対して、彼はエリシャに謝礼を申し出ますが、エリシャは固辞します。神のみわざを金で買うことはできません(使徒行伝8:20)。彼のスタンスは純粋でしたが、僕のゲハジはその誘惑に惹かれてしまうのでした(ヤコブ1:13−15)。彼の偽りは、肉体ではそこにいなくとも、霊においていたエリシャの見通すところでした。霊は神のともし火であり、私たちの霊を偽ることはできません。パウロも同様の処置を下しています(1コリント5:4,5)。神の恵みからもれることは恐るべきことです。


2.4.王たちへの務め

物 語

(1)ベン・ハダデに対して:ドタンの町がアラム軍によって包囲されるときも、エリシャは恐れる若い者に「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」と励まし、彼の霊の目を開くと、火の馬と戦車が周りを囲む光景を見ます(2列王記6:16,17)。しかし敵に対しても"塩を送る"あわれみを示します。そしてついにサマリやがアラム軍によって包囲されるに至り何らの希望もない状態に追い込まれる際も、エリシャはアラム軍の敗退を預言します。それはその通りに実現し、アラム軍は慌てふためいて退却してしまいます。エリシャがダマスコを訪れたとき、アラムの王ベン・ハダデは病に伏せており、彼はエリシャに伺いを立てますと、エリシャは「病気は治るが、死ぬことになる」と預言します。同時にベン・ハダデの家来であったハザエルが王になるべきこと、しかも彼がイスラエルに災いをもたらすことを預言しますと、ハザエルは自らベン・ハダデの顔に濡れた紙を張って彼を暗殺しました。こうしてエリヤに対する神の言葉は成就しました(1列王記19:15参照)。

(2)イエフに対して:エリシャはイエフに油を注がせてイエスラエルの王として立てます。これはエリヤに対する主の言葉の成就でした(1列王記19:16)。イエフは、イゼベルも含めてアハブの関係者をすべて粛清することによってバアル信仰を破棄しました。確かに彼は有能な王であり、イスラエルでは最長の統治期間(28年)を記録します。しかしそのバアルの粛清も政治的なものであり、彼自身の心が主に立ち返ることはありませんでした。事実彼は"ヤロブアムの罪"から離れることはなく、金の子牛を礼拝していました。主はバアル信仰の粛清のために彼を用いましたが、ハザエルを用いて彼を衰退させられました。

(3)ヨアシュに対して:エリシャが臨終の床についていたとき、イスラエルの王ヨアシュが彼のもとを訪れました。彼はアラムに対するヨアシュの勝利を預言しますが、ヨアシュの心は半身の状態であったため、十分な勝利ではないと告げます。ついにエリシャも召される日が来ました。このエリシャの墓に共に埋められた死人がよみがえるという奇跡もなされ、エリシャの務めはその死後も影響力を残すのでした。

霊的意義

エリシャのミニストリーはやもめやシュネムの女という個人レベルの必要に応えると同時に、王たちの動静に対しても預言の言葉を語り、はたしてそのとおりに事態は進展しました。恐れる若者に対するエリシャの言葉は第1ヨハネ書簡4:4を彷彿とします。自分にあってまったくの手詰まりの時に、私たちは御霊によって霊の目を開いていただき、神の装備を見る必要があるのです。エリヤから継承された預言が彼の手にあって成就する場面もありました。エリヤの霊の二つ分を受けた彼は、"神の人"として十分なる油塗りのもとでその務めを行うとき、国家に対する主の主権の介入にも関わるのです。これは私たちも同様であって、一日本人として自分には何らの影響力もないようですが、私たちは選ばれた者、王の系統を引く祭司なのです(1ペテロ2:9)。私たちが主の言葉を預かって語り出すことは決して小さいことではありません。そのとき地上の王たちもベン・ハダデやヨアシュと同様に、むしろ私たちに対して主の言葉を求めて伺いを立てに来るのです。



3.神の全計画における意義



エリヤの霊はその二つ分がエリシャに継承されました。エリヤはバアル信仰と真っ向から戦い、孤独の預言者として主の言葉を語りました。その預言をも含めてエリヤを継承したエリシャは、このような真っ向からの対決の場面はあまりありませんでしたが、周囲の人々の必要にこまやかに応え、また国家レベルにも介入しました。そこでは主の言葉に従って不思議なわざがなされ、主の言葉の真実であることが証しされました。その業は油を増やすこと、少ない食料で大勢を養うこと、死んだ子供を生かすこと、らい病を癒すことなど、エリヤと共通する要素が多々観察され、それはまたイエスの御業とも相通じるものでした。エリヤによって敷かれた霊的路線が継承されて、それが神の恵みの中で成就する印象を持ちます。

それはあたかも御父の御旨が恵みの中でイエスによって成就されていくのとパラレルです。その成就の鍵はエリヤ、エリシャの場合もイエスの場合も御霊です。エリヤ→エリシャ→他の預言者・・・と継承された神の御霊は、イエスに対して無限に注がれ(ヨハネ3:34)、彼によって神の業がすべて成就され、今や御霊がそのことを私たちの内に実体化されるのです。すべての神の御業の原動力はまさに御霊にあります。御父の意志は御子に継承され、御子の成し遂げられたことと言葉は御霊によって私たちの内に証しされるのです(ヨハネ16:12-15)。御霊こそ御父と御子を私たちの内で実体化される神のパワーであると言えます。御霊を得るときに、私たちの神のすべての意志、御業、そして神ご自身を得るのです。エリシャのように大胆にエリヤの霊の二つ分を求めましょう。

新約に与る私たちに対して、私たちにキャパシティがありさえすれば、御父はそれ以上に限りなく注いで下さいます(ルカ11:13)。新約の私たちも同様にあらゆる人生の必要の中で、まず神の言葉が与えられます。その言葉は第一義的には真の預言者である内にいますキリストが語って下さいます。するとその通りにあらゆる必要は満たされるのです。私たちは内にエリシャが予表した実体である方(=イエス)を持っているのです。


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