愛と信仰について
パウロは言います:「・・・山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。・・・愛がないなら、何の役にも立たない。・・・こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。」(1コリント13章)。これを聞いて、多くのクリスチャンは、「愛こそすべて」として、何でも許し、何でも受け入れ、つねに笑顔で、つねに柔和で・・・という取り繕いに落ちてしまいます。今日キリスト教会において−私は真実であることを願います−その陰の部分に腐敗と偽善が深く潜んでいることを認めなくてはなりません。「愛こそすべて」がキリスト教会の"水戸黄門の印篭"になっています。このキャッチコピーの裏において、多くの暗闇の仕業が光を当てられることなく、恥部として隠されたままになっております。ここで指摘しておくべきは、この"愛"とはギリシャ語の"アガペ"であって、神に由来する愛なのです。決して人間的なフィレオの愛でもなく、もちろん男女間のエロスの愛でもありません。それは神の愛です!
イエスを見れば、神の愛が分かります。彼は病んでいる人、虐げられている人には深い憐れみを示されました。一方で偽善的行為に満ちているパリサイ人には"白く塗った墓"として、その本質を暴露しています。また宮で両替をしていた人々に対しては、鞭をもってその台をひっくり返しました。彼の愛の表現は人間的レベルで見るならば、ほとんど野蛮とも見えます。実はここが日本人の最も弱いところです。愛をとんでもなく誤解しているために、何でも許し、何でも受け入れ、何でも笑顔で・・・というクリスチャン的偽善がまかり通るのです。私の師のColin
Urquhartは、「神の愛はセンチメントではなく、ストロングである」とよく言っています。悪を暴き、問題を指摘し、対決すべきときには対決し、言うべきことは言う、これが神の愛です。特に真理(御言葉)は人の魂と霊を切り離しますし、肉にとっては痛みを覚えるのです。しかし愛は真理を喜びます。真理は対決的なのです。日本人の思い描く"愛のイメージ"は、母親的な人をスポイルする愛です。砂糖まぶしの愛と言えます。イエスは過激とも思える言動によって偽善を暴き、そのことのゆえに、また私たちの罪のゆえに自ら十字架につけられました。これが神の愛です。
一方、人間的な愛は必ず腐敗します。実際、レビ記2章にある素祭は、上等の小麦粉にパン種も入れず、また蜂蜜もかけてはならないとあります。この細かく砕かれた小麦粉はイエスの人性を表します。そのイエスの人性には蜂蜜を混ぜてはならないのです。人間的な愛はしばしば蜂蜜のように甘いのです。もっと言うと甘ったるいのです。そして必ず時間と共に腐敗し、醗酵し、酸っぱくなります。教会の中で起こる人間関係の問題は、この腐敗によるものがほとんどです。したがってレビ記2章においては、むしろ塩をかけるように要求しています(13節)。塩には殺菌作用があります。私たちと私たちの口の言葉は塩で味つけなさいとあります(マルコ9:49、コロサイ4:6)。また私たちは塩気を失ってはならない、もし失えば役に立たなくなり、人々に踏みつけにされると警告されているのです(マタイ5:13)。しかし塩気によって私たちは互いに和らぎなさいとあります(マルコ9:50)。"塩気によって互いに和らぐ"ことこそ神の愛の力です。
パウロは言っています:「信仰によらないものはすべて罪である。」(ローマ14:23)。この言葉と上の第1コリント書の言葉は真っ向から対立するように見えます。信仰と愛と、どちらが神の前で重要なのでしょうか。パウロは明確な解答を用意しています:「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(ガラテヤ5:6)。愛(アガペ)によって働く信仰です。信仰によらないことはすべて罪、ゆえに信仰によらない愛は罪です。が、愛のない信仰は虚しいのです(罪ではありません)。しかし信仰がなければ神に喜ばれることはできません(ヘブル11:6)。しかるに信仰、希望、愛のうちもっともすぐれているものは愛です(第1コリント13:13)。これが愛と信仰の関係です。愛と信仰を同じ平面上の対立概念ととらえると混乱するでしょう。平面が違うのです。
今日多くの問題が起こるのは、人間的な塩気を欠いた、甘ったるい愛が蔓延しているからです。この甘さは必ず醗酵し、酸っぱいものとなります。私たちのお互いの関係を和らいだものにすることができるのは、この塩気で味つけられた愛によるのです。