1.人物像
"イサク"はご存じのと通り「彼は笑う」の意味です。アブラハムが100歳、サラが90歳の時にようやく誕生した約束の子供でした(B.C.2066、異説B.C.1900)。イサクはこうして父と母の深い愛を受けて育ちますが、アブラハムの信仰の試みの際、彼は全焼の犠牲として父の手によって殺される直前に至ります。人間的に見るならば、この際に受けた彼の心理的ショックはどのようなものであったでしょうか。聖書はそのことについては触れていませんが、多分に彼の"受け身"的パーソナリティーの形成にとって、良い意味でも悪い意味でも大きな影響を与える事件であったと推測されます。
その後成長した彼は父の財産をすべて受け継ぎ、非常に豊かな族長となりますが、家庭内においてはその妻リベカが実権を握っており、いわゆる「尻にひかれた亭主」的立場に置かれます。また彼は危険な状況に置かれた時、アブラハムと同様に妻リベカを妹と偽って切り抜けようともします。つまり自分が置かれた状況から受けるプレッシャーに対する弱さを持っておりました。老境にある父母から生まれたただ一人の実子として、父母の愛の中で"健やか"に育てられ、父の財産をすべて労することなく受け継いで富みを得るという生育歴から、このような性格上の弱点も有していました。20年間ほど子供がありませんでしたが、祈りの結果、双子のエサウとヤコブが与えられます。
2.主要なエピソードとその霊的意義
物 語
イサクの生涯の記録を追って見ますと、アブラハムとかヤコブのような、何か劇的なエピソードがあまりないことに気がつきます。アブラハムの信仰の試みの際にモリヤの山で父親から殺されそうになる時も、「お父さん、火と薪はありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか」と無邪気にたずねるばかりで、抵抗したことも記録されていませんし、彼の内的な葛藤の経験の記述もありません。その後彼は40歳の時、アブラハムの配慮によって、自らは何も労することなく、美しいリベカを妻として迎えます。そして父親の財産をすべて受け継ぎます。ただし、リベカが不妊の女だったために、彼は主に祈りますと、主はその祈りに答えられ、リベカは双子を宿します。主は「兄が弟に仕える」という約束を与えます。こうしてイサクは60歳で双子のエサウとヤコブを得ます。
その後飢饉が襲いますが、主は彼にエジプトに下ってはならないと命じられ、彼はそれに従ってゲラルの地に移住します。この時にイサクはアブラハムと同様に、妻のリベカを妹と偽って、危機的状況を回避します。主はこの地においてもイサクに対してもアブラハムへの約束を再確認され、その約束通りにイサクを祝福され、彼はますます富む者とされました。晩年になって、イサクは二人の息子たちを祝福しますが、目がかすんでいたために、主の祝福の対象がヤコブにあることを知ったリベカの策によって、弟のヤコブを祝福してしまいます。こうして主の約束の言葉は実現します。彼の家庭は妻のリベカが実権をもって、様々な配剤をしていました。こうしてイサクは180歳で天命を全うし、葬られました。
霊的意義
アブラハムとサラにとっては"イサク"という言葉の響きにはとても複雑な感情を覚えるのです。一面、神の約束の実現という喜びである共に、一面では神の言葉を「笑った」自分たちの不信仰を指摘されるのです。神の約束の実現は、人の側からすると思わぬ時になされるのです。ところが父アブラハムとか彼の双子の息子たちにおいては劇的なエピソードがいくつもありますが、イサク自身の生涯はある意味で平板な淡々としたものでした。自ら労することもなく、美しい妻を得、父の財産を受け継ぐことによって、自らは労することもなく豊かな者とされ、家庭内の配剤は妻のリベカに任せておりました。不妊のリベカのために祈ると、主は答えられ、アブラハムのように自分自身の策を労することもなく、双子を得ます。このように彼には何か"受け身"的要素を多分に感知し得ます。現代的に言うならば、老境に入った父と母にとっては目に入れても痛くない存在でしたから、まさに寵愛を全面的に受けた"おっぼちゃん"的な人物だったのでしょう。
しかしながら彼の生涯は、天の父なる神の子供たちとされた私たちにとって、非常に素晴らしい啓示を見せております。それは自分の努力によらずして、父アブラハムに対する約束の効力によって、無代価ですべてを受け継ぐことができるということです。イサクの生涯はただただ祝福を受ける生涯でした。飢饉においてさえもこの世を象徴するエジプトに下ることなく、むしろその中でも富みを増し加えられたのです。ただし重要な点は、この世を象徴するエジプトに下ることなく、神の言葉に従って、カナンにとどまったことです。私たちクリスチャンも生きる場は"そこ"のみです。
クリスチャンの人生において、御子イエスにおける父の約束の実現の故に、天の父の富をすべて嗣業としてキリストと共に受け継ぐことが約束されています。この素晴らしいクリスチャンの特権をイサクの生涯は描いてみせております。イサクのように自分自身は妥協しやすく、また嘘も言ってしまう弱点を持っていても、アブラハムに対する神の約束の故に、無代価で父の豊かさを受け継ぐことができるのです。すなわちそれは自分の何かの美徳によるのではなく、アブラハムに対する神の約束の故でした。その約束を根拠として、私たちはただただ受けることができると言う素晴らしい祝福の中に置かれているのです。
3.神の全計画における意義
神は信仰の父アブラハムにおいて選びと召命、そして祝福の約束を与えました。イサクはその実現であって、神の真実を証しすると共に、その名前と生涯において証しされた通り人の側の問題点も思い起こさせますが、彼はアブラハムの約束の故に、神の祝福を無代価で受け継ぐ者とされ、父の富を得て、豊かな者とされます。またイサクはある意味で死んで復活されたも同様であり、したがってそこに子としてのイエスの様を見ます。そしてその子ヤコブにおいては、神の御手によって聖霊の管理の下で練られて行く経験を見ます。この3人の中に三位一体の神を見ることができます。
このように、神の選び、召し、約束、その実現、神の配剤と取り扱い、そして完成に至るという一連のプロセスにおいて、イサクは私たちの諸々の問題点や弱点に関らず、約束のゆえに健やかさと豊かさを楽しむことができるという、私たちクリスチャン生活の側面を描いています。私たちの人生は客観的に見るならば平板で淡々としているように見えるかも知れませんが、実はすべて神の約束の実現により、すべて神から受けることによって、すべて神の祝福によって成り立つことを知るのです。彼の果たした役割は、一見受け身的なものでしたが、父アブラハムに対する神の約束を実現し、死と復活を経て、祈りによってヤコブを生み、弟である彼を祝福することにより、彼を12部族の祖とし、メシアの到来の備えをする礎を築いたのでした。