(注)ここで神はハガルとイシマエルを顧みてくださいます。神はこのような存在に対しても心をかけて下さる慈しみに満ちたお方なのです。
しかしながら真の神の業はそういった人間的な能力がなくなった場面において如何なくなされます。アブラハムは99歳で割礼を受けますが、これは彼の肉の力が尽きたことを示します。かくして神はアブラハムが100歳、サラも90歳のとき、神は彼らに息子を与えると言われたのです。何と言うナンセンスでしょう!しかし人にはできなくても神にはできます。このようにして得られる実は「御霊の実」と呼ばれ、私たちにとっての真の祝福となります。人間的に見て絶望的状況においてこそ、肉が切り取られ、神の業は明確に証されるのです!
そしてパウロはガラテヤ書において、奴隷女ハガルはシナイ山を意味し、それは律法による奴隷状態にある様の比喩であり、自由の女サラは天のエルサレムを意味し、恵みによる自由人の生き方の様の比喩であると新約の光の中で解き明かしています(ガラテヤ4章)。律法を守ろうとすれば、私たちの肉を刺激するだけであり、その結果は律法の奴隷となることです。しかし信仰によって御霊の力に頼って生きるならば、それは恵みのうちに生きることであり、キリストが十字架で勝ち取ってくださった自由の中に生きることを意味するのです(→「律法と恵みについて」)。
2.2.イサクの奉献
物 語
イサクが少年になったある日のこと、神はアブラハムに向かって、「あなたの息子イサクをモリヤの山で全焼の供え物として捧げなさい」と命じられました。なんと言う過酷な要求でしょう。しかしアブラハムはその言葉通りに息子を連れ、モリヤの山で彼を薪の上に寝かせ、ナイフを息子の上に振り下ろそうとしたその瞬間、神は彼に、「彼に手を伸ばすな。彼に何もしてはならない。いま、あなたが本当に神を恐れる者であることが分かった。あなたは一人子さえも惜しまなかった」と言われ、イサクの代わりに仔羊を犠牲の供え物としてアブラハムに与えられたのです。こうしてアブラハムはイサクを再び得ることができました。そしてこのイサクからヤコブが、ヤコブからいわゆるユダヤ人の12部族の祖先が生まれ、この中のユダ族からダビデが、そのダビデの子孫としてイエスが生まれたのです。このようにしてアブラハムは確かに神の約束通り大いなる国民の父となったのです。
霊的意義
神はこのようにして得られた唯一の息子を犠牲の供え物として捧げることをアブラハムに要求します。これは一見過酷に見え、神は残酷なことをなさると思えるかもしれませんが、実はこれは神のテストであって、それはさらなる祝福へとアブラハムを導くためなのです。神は決して気まぐれに私たちを試みることなどはなさいません。そして興味深いことにこのときアブラハムは不思議な言葉を残しております:すなわちモリヤの山へ登る前において「私と私の子供はあそこへ行き、礼拝をして、あなたがたのところへ戻ってくる」と(創世記22:5)。これから子供を犠牲として捧げるべき時に、「私たちは戻ってくる」と宣言しております。これがアブラハムの信仰の表明でした。彼は神が自分を大いなる国民の父とすると言われた以上、自分の正当な子供であるイサクを神に捧げても、神は必ずイサクを返してくださると信じていたのです!アブラハムはイサクの復活を信じていたのです。
またここでアブラハムが問われたことは、神御自身を愛するのか、それとも神が下さった賜物を愛するのか、です!私たちが所有しているすべては神が下さったものです。なぜならそもそも私たちの命自体が神の与えて下さったものだからです。私たちはしばしば「与え主」をないがしろにして、「与えられたもの」をより愛してしまうのです。そして実はそれは自己を愛することに等しいのです。自分の愛着を感じるものを愛することは自己を愛することに他なりません。ここで十字架が働きます。十字架の機能は「自己の否定」と「自己の死」でした。アブラハムは試されました。そして彼はその信仰の故にそのテストに合格したのです。
私たちは神からの約束を得ます。その実現を待ちます。その間自分で実現させたいとする誘惑を受けます。ついに自分ではまったく不可能となる瞬間に神の業がなされ、ついに願っていたものが与えられます。そして次に問題となるのが、その賜物自体を神自身よりも愛してしまうことです。ここで私たちの十字架が働くのです。十字架は自己の死をもたらします。私たちと神との関係を妨げる要素はすべて焼き尽くされる必要があります。一見過酷です。しかし感謝すべきことに、神は復活の領域において再びその失ったものを恵み豊かに返して下さるのです!しかもそれは以前のようにではなく、はるかに素晴らしい祝福を伴って、神の栄光を帯びる形で戻ってくるのです!これは例えばヨブの物語を見ても明らかです。