最近の日本に思う -われわれはどこから来てどこへ行くのか−


■思えば高度成長期の頃は物事が単純だった。「良い大学を出て、良い会社へ入り、業績を上げれば地位も上がり、収入も増える」というセントラルドグマが確立しており、しかもそれが永久普遍の真理であると感じられるほどに、日本の社会および人々の精神構造の中に定着していた。よってその行動パターンを忠実に実行すれば、自分の願ったもの、自分の存在意義、自分の満足など、自分の何かを自分の力で満たすことができた。よって人々は自分の人生において「希望」と「ビジョン」を持て、それを実現することができた。このような時代においてはとりあえず人間の存在意義とか、自分が何者(アイデンティティー)であるのかとか、人間はどこから来てどこへ行くのかなどの根本的問いに直面しなくとも、とりあえず自分の人生を運営することができた。きわめて単純な価値観と行動パターンで物事が済んだ時代であった。

■ところが最近になって、社会の構造が大きく変革していく中で、今までのセントラルドグマが今まで通りに機能しなくなってしまったのである。一流といわれる企業や大銀行までもが簡単に倒産し、人々は互いの信頼関係を喪失し、会社は会社の存立を意図してリストラという口実の下人々の生存手段を奪い、個性の尊重などというもっともらしい価値観に侵食されて人は孤立し、コミュニティーが次から次へと崩れ、もともとしっかりとしたいわゆる宗教的オリエンテーションがない中で、自分の身の置きどころ、心の置きどころを喪失している。人生に対してビジョンが得られず、とりあえず今日と明日の食いぶちを心配しながら生きなくてはならない状況に陥っている。まさに閉塞状態にある。このような社会においては、一体自分が何者であるのか、すなわちアイデンティティーを担保するものが希薄となり、自己の確立がきわめて困難となり、そのため自己の価値観や判断に自信を喪失し、ひいては人生への自信と見通しを失ってしまうのである。

■いわゆる「人の和」などの表現で明らかなとおり、もともと自己のアイデンティティーを明確に確立しおらず、かろうじて人の中における相対的な位置関係によって自己のアイデンティティーと自分の存在意義や価値を確認してきた日本人にとって、身の置きどころがなくなることはほとんど致命的である。コミュニティーの喪失とともに、自己のアイデンティティーさえも失う危険にさらされるわけである。そして従来日本の社会における行動規範あるいは価値基準は、コミュニティーにおける自己の居場所を担保する「恥」にあったのであるが、この日本的美徳さえも自由や個性の重視などの標語のもとで崩壊している。したがって現在の日本においては「何でもあり」の状況を呈しているわけである。モラルなし、政治は低級、教育も建前論的偽善、そして唯一の誇りであった経済も縮小、日本人は自信を失っている。そのような中において、例えば五木寛之氏や石原慎太郎氏の宗教(仏教)本がベストセラーとなり、ニューエイジ系の「ヒーリング・セミナー」とか「自己啓発セミナー」などの自己発見のノウハウものの流行、さらには「オウム」などのカルト集団において一般社会が喪失した「何か」を補償する行動パターンを取る若者が増加している。

■もともと人間とは何かに答えるとか、あるいは自己のアイデンティティーを確立するためには、神とは、自己とは、サタンとは、という霊的な文脈の中で行われるべきものであり、その究極的解答を聖書が提供しているのであるが、何故か日本人は仏教的な色彩を好むようである。創造者を知らずして、自己を見い出だすことなどは不可能というべきである。日本人は神の前で単独者として立つことに耐え得ないぜい弱な精神構造を有しているように思える。クリスチャンはこの点、キリストにあって神の子であるという明確なアイデンティティーを確立されている。そして自分がどこから来てどこへ行くのか、自分の究極的目的はどこにあるのか、自分の身の置きどころと心の置きどころも明確である。いわば現代日本人が失ったセントラルドグマを持っており、そしてそれは真に永久不変のものなのである。このことを意識するだけで思わず神に感謝したくなり、叫びたくなる衝動を覚えてしまうのはクリスチャンであれば私だけではないと思う。(1999.03.14)


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