私の研究室に学生が配属になってきた。ある手続きに関して、A君が自分と友人X君の手続きを代行すると言って、私のもとに来た。書類を書かせるためにA君にX君の氏名を教えてくれるように求めるや、私は彼の回答に驚いた。正直に言ってあきれてしまった。A君いわく、「あいつはヒデって言うんだ。」、私:「氏名を言って。」、A君:「知らねえ。ヒデはヒデだから」。私:「君達は何年付き合っているの?」、A君:「1年の時からだから、3年かな・・・?」、私:「本名知らないで3年付き合ってきたの?」、A君:「うん、別に知る必要ないじゃん。ヒデで通ってるからさ」・・・・。A君はこうしてケータイからX君の電話番号だけをピックアップして私に教えてくれた。
私はかつてから人間関係において傷つくことを恐れる若者は、関係をケータイなどによって間接化することにより、互いのプライバシーを侵さないで適当な距離をおいて付き合う傾向が強まっていることを指摘した。この間接化の精神病理によって、人間関係が壊れ、コミュニティーが崩壊し、人が自分のアイデンティティを確認することができなっているのが現代日本であることを論じた(→『
青少年の病理』)。今回の件はこの私の観察と分析がまさに正しかったことを証明する一件であった。しかし私の予想以上のことが起きていることに、ある意味で愕然とし、10年後の日本の姿を予想するとき、恐ろしさを覚えた。彼らのよく使う台詞に"ウザイ"がある。要するに「うっとおしい、めんどうくさい、うるさい」と言った心理を端的に現している。彼らは自分の内面に入り込まれることを極端に嫌う。しかし彼らはいわゆる友達の輪から切り離されることを極端に恐れている。このようなアンヴィバレンツ(両義性)な心理を"ヤマアラシ・コンプレックス"と言う。ヤマアラシにはトゲが生えているため、お互いに体を温めあおうとして接近し過ぎると、互いをトゲで刺してしまう。"ウザイ"という言葉は、この近づきたい、しかし傷つけられたくないという心理をうまく語っている。
私達もそのような心理を抱いているが、私たちはそれを知っている。しかしA君はそのことを知らず、ウザイ関係を避けるために、ケータイを通じた間接的な関係だけを維持している。彼らは一見楽しそうにやっているが、実は仲間の中での孤独感に苛まれている。彼らはメールにはまり、ケータイにメールが入っている安心し、メールに返事が来ないとたちまちに不安に落ち込むと言う。彼らにとって唯一自分のアイデンティティを確認し得る場が友達の輪であるが、しかしそれがすでに間接化されている。こうして彼らはアイデンティティを確認する場と術を喪失し、特に仲間から孤立された者たちは「透明な存在」に落ち込む。
よく"人間"とは「人の間」であると言われる。人は「人の間」において、その関係性において自分を確立し得ると言うのである。一見もっともらしいが、残念ながら、真理ではない。実は「人の間」をもっとも気にする人種が日本人である。しかし"個"をもっとも確立していないのがまた日本人である。精神病理学者木村敏は精神分裂病は「間の病理」であると論じた。"間"が壊れるとき、人は精神を病むというのである。きわめて日本人的な観察と分析である。確かに日本の文化は"間"の文化である。いわゆる笑いはこの"間"の不規則性、あるいは意外性によって生じる。"間"の取り方は芸術・演劇・剣道・柔道・空手・茶道・華道・書道における秘訣であり、間合いの取り方こそが奥義である。
現在の日本はこの人間関係における"間"の取り方が病んでいる。この意味で日本全体が分裂病的精神病理に落ち込んでいると言える。そして最も根本的な問題は、神との"間"の取り方が確立していないことである。真の"個"の確立は、神との関係性においてのみ成立するのである。