■最近、国会において「盗聴法」(政府は‘盗聴’という単語は不本意であると言っているが)が成立し、さらに「君が代・日の丸」をそれぞれ国歌・国旗として法律で制定する動きが活発になっている。この件ではすでに広島県の高等学校の校長が自殺を遂げるという悲劇すら引き起こしている。何故これほどにこの問題は錯綜してしまうのであろうか。一日本人として日本を愛する気持ち(いわゆる愛国心)は私も持っているし、国歌とか国旗があることはむしろ当たり前のことであって、世界の他の国においてはきわめて当たり前にこの手の問題は処理されている。しかし、どうも日本の場合は何か特異的な要因が横たわっているようである。
■すでに「進化論の精神病理」と「オウム問題に思う」でも述べたが、日本はその深層心理において、非常に深い自我の分裂を呈している。精神分析学者の岸田秀氏も論じているように、自我に自ら目覚めることがなかった日本が、自閉症的鎖国の状態から半ば暴力的に開国を迫られ、その時点で、あくまでも自己完結的に太平の世を謳歌していたいという自我と、相手の恐喝に屈せざるを得なかった自我の間に分裂が生じた。岸田氏によると、日本はあたかもレイプされた女性のような存在であるという(「ものぐさ精神分析」参照)。しかもその相手が単に醜く野蛮な相手であれば、ただ相手を憎悪するという自分の自然の感情によって対応すれば良かったのであるが、逆にその相手はひじょうに美しく聡明で豊かな貴公子であり、自分を幸福にしてくれる存在のように見えたのである。
■ここに日本という国を個人になぞらえた場合、自分の意志に反して開国させられて屈辱を覚えている本来の自我(内的自我)と、アメリカに対して、受容され保護されたいという欲求を抱き、取り繕いをせざるを得なくなった自我(外的自我)の間に分裂が生じたのである。レイプされた女性が、その相手に保護されるために擦り寄らざるを得ない状況をイメージすれば、事態の把握が容易になる。ここで絶えず本来の内的自我の屈辱感を外的な自我が抑圧しつつ、相手に対して八方美人的対応をせざるを得なくなったのであるが、この抑圧された内的エネルギーは正当なチャネルを通して解消されない限り、自我の安定性に深刻な影響を及ぼすのである。外的自我は絶えずそのエネルギーの噴出を抑えなくてはならず、それは外的自我にとってかなりのエネルギーの消耗を意味し、時々に噴出したそのエネルギーが屈折して韓国や中国へ向かって、戦争中の様々な悲劇を引き起こしたと説明される。ここで日本は常に「建前」と「本音」の乖離の上に自らを建てることを余儀なくされ、このような自己欺瞞によって、時々に噴出する内的エネルギーが、アメリカと日本の間で繰り返される同じパターン、すなわち強迫反復をもたらしているのである。
■今回の「君が代・日の丸」問題もこのような精神病理によって説明される。すなわち自我の分裂状態にある日本にとっては、自分が自分をありのままに受容し、愛することができず、絶えず「取り繕い」に明け暮れる結果、本当の愛国心とか国家への忠誠心の自然な発露が阻害されているのである。したがってかつての悲劇の象徴として用いられ、そのためにその悪の本質的原因であるかのようにみなされてしまった「君が代・日の丸」に対して、ある種のアレルギー反応を呈し、その本質をとらえることなく、何か表層的操作に明け暮れて、それに対する評価も絶えず分裂し、揺れるのである。素晴らしい美男子(米国)にレイプされた女性(日本)がつねに憎悪を抑圧しながら相手に擦り寄りつつも、内的自我は絶えず無意識的に復讐を考えており、ある時その復讐のために用いた手段によってかえって相手にねじ伏せられてしまったため(太平洋戦争)、外的自我はその象徴(君が代・日の丸)を見るのも考えるのも嫌悪するようになる過程をイメージされれば事態の把握は容易になる(注)。しかし彼女は今回その象徴に触れざるを得ない事態に立ち至っているわけである。これが精神病理学的に見た今回の問題の定式化と解き明しである。
(注)ここでは、とりあえず話の単純化のために、日本の「内的自我」とは右翼的要因、「外的自我」は左翼的要因とみなしてもよい。
■しかし私どもクリスチャンからするとさらに深い霊的要因が横たわっていることを感知するのである。すなわち「君が代・日の丸」の背後に働いている霊の存在である。聖書のエレミヤ書7章18節に「天の女王のために捧げ物の菓子を作り、異教の神々に捧げ物のぶどう酒を注いで、わたし(主)を怒らせている」という言葉がある。ご存知のように、日本の天皇のルーツは天照大神であって、それはエレミヤ書の「天の女王」であると、ある聖書学者は指摘している(注)。その天皇を「君」と歌っている「君が代」は霊的にはこの「天の女王」を崇めるものであると結論できるのである。また天照大神は太陽神であり、「日の丸」はその太陽をイメージしているのであるから、やはりこの「天の女王」を象徴するものであると結論できる。ここで聖書が厳に禁じている「偶像礼拝」という深刻な霊的問題にぶつかるのである。3月に小学生の子供の卒業式があったが、先生たちが誰もいない日の丸の飾ってある壇上に上る際、何かに対して頭を下げて礼拝をしている光景を見て、「先生は、誰にお辞儀をしているの?」と、子供が不思議がっていた。私はここに先生をして頭を下げざるを得ないようにしている霊的な束縛力を感知したのである。この霊が広島の校長を自殺に追い込んだのである。
(注)この霊は世界の各地で様々な形で「神」、特に様々な形態の「女神」、として礼拝されている。例えばカトリックの「マリア礼拝」や近代的「女性解放運動」の背後にある霊も同じ霊である。
■サタンの本質欲求は自らが神になり、礼拝を受けることであり、したがって彼の配下の悪霊もその傾向を強く有している。これがカルトの原因であることはすでに述べた(→「オウム問題に思う」)。カルト(=礼拝)とは真の神以外の存在を礼拝することに他ならない。そして現在の日本にはこのような霊的雰囲気が密かに蔓延しつつあり、この「天の女王」を礼拝するように強いる霊的勢力がひたひたと忍び寄りつつあるのである。これが聖書的な霊的知識と霊的感受性を有している私たちクリスチャンの懸念する今回の問題の本質である。ある意味で日本が再びカルト国家への第一歩を踏み出しつつあるクリティカル・ポイントにあると言える。日本は戦後これまで、物質主義一辺倒で「会社」や「経済」を偶像として、それらに頼りつつ、いわば礼拝(カルト)して来た。しかしそれらの崩壊によって頼るべき目に見える対象を喪失しつつある中で、その反動として、真の神(主)を知らないがゆえに、何らかの精神的縁(よすが)を求めて、直接的に霊的偶像礼拝の領域に入り込もうとしているのである。
■聖書には「いかに幸いなことか、主を神とする国、主が嗣業として選ばれた民は」(詩篇33:12)とあるが、まことの神である主を礼拝せず、主に仕えないで、何か他の存在を礼拝し仕えることは、実はただちに神ならぬ「神」、すなわちこの世の君サタンとその悪霊を礼拝し、彼らに仕えることを意味する。もしそれを容認するのであれば、いずれ目に見える形での色々な規制や自由の侵害が起きてくることは必定である。日本には絶対的座標軸(十字架)がなく、何らの価値基準を持たない国である。よって振り子のように、時々の霊的風向きによって右から左、左から右と揺れるのである。今回は抑圧されてきた内的自我がそのパワーを噴出し、外的自我と内的自我のバランスが崩れる瀬戸際に来ている。われわれは日本が自らを主の呪いの下に置くことになるような事態に立ち至ることを、真剣な祈りをもって阻止すべき切迫した必要を覚えるのである。この件については、あらゆる霊的識別力と霊的知恵を主が備えて下さり、今後の進展が主の憐れみによって取り扱われるように祈る次第である。(1999.07.19)