東北路に思う −日本の霊的葛藤のルーツ−
■1週間ほど家族で北海道に行った。わが家の毎年の夏の行事である。新潟港からフェリーに乗り、1泊して小樽港に朝4時頃に到着する。小樽港の朝明けはすばらしい光景。海岸線を積丹岬へと走り、その風景を満喫した。札幌へ出てラーメンとアイスクリームを食し、北大のキャンパスで遊んだ後、高速を北上し沼田町のホタルの里キャンプ場でロッジを借りて、バーベキューやカレーを作り、そこに2泊する。おもしろい事に、キャンプに来ると時間の流れがすごくゆっくりになり、1日が長い。昔の人は客観的な寿命は短かったとしても、主観的にはきわめてゆったりとした、長い一生を送っていたものと思う。現代人はいろいろな文明の恩恵を受けているとはいえ、縄文人の生活の豊かさはわれわれのそれにはるかに勝っていたのではないか、と思う。そしてドラマ「北の国から」で有名な富良野を訪れ、「北の国から」記念館を見学し、アイスクリームを味わった。その日は洞爺湖のほとりのログハウスを借りて、再びバーベキューを楽しむ。山の上にあるために、洞爺湖が一望でき、これまたすばらしい景観を楽しめた。
■翌日、函館に出て、フェリーにて青森の大間に渡り、下北半島を南下する。途中、ちょっと興味半分で霊媒の存在で有名な恐れ山を訪れるが、完全に観光地化されており、おどろおどろしい雰囲気ではなかった。その後キリストの墓があるというとある村を訪れるも、竹内古文書というちょっといかがわしいものによるものであった。聖書を知っている我々からするとあまりのあほらしさにあきれるばかりであるが、ヒトラーが「嘘は大きいほど真実味を増す」と言っているが、まさにその例を見た感じがした。十和田湖のキャンプ場に1泊する予定であったが、時間が遅くなってたどり着けず、やむを得ず十和田市内のビジネスホテルに素泊まりした。翌日八戸から高速を南下し、途中友人のクリスチャンで福島の山の中に山小屋風の別荘を自力で建てている兄弟のもとに寄り、1時間ほどの交わりを楽しみ、ともに祈った。このようなわけでフェリーにて1泊、北海道にて3泊、東北にて1泊の旅は無事終わり、わが家の夏の行事も後は時期をはずした伊豆の白浜での海水浴を残すのみとなった。
■結局、今回は東北路を1日で760キロに渡って走ることになったが、今回とても興味深いことを経験した。まず東北は自然がとても深いこと。そしてその自然の深さに触れるとき、何か畏敬の念を覚えること。アニミズム的な森の精霊とか、アニメ映画の「トトロ」の無邪気な世界、あるいは「もののけ姫」的な霊的世界を感知することができた。実際、道路の端々にほこらや道祖神、あるいは地蔵や鳥居などが頻繁に建てられていた。「キリストの墓」までも受け入れてしまう東北人の霊的寛容性に感心すると同時に、その霊的ナイーブ(幼稚)さを感じた。
■そのような霊的雰囲気の中で、家々にキリストの福音を語るプレートが貼られていることは興味深かった(注)。例えば、「イエスは神の御子である」、「罪の報酬は死である」、「キリストを信じる者は裁かれない」、「イエスの御名を呼び求める者は救われる」、「悔い改めて永遠の命を得よ」などなど。黒いバックに黄色あるいは白の文字で書かれているので、ちょっと暗い感じがするが、書かれている言葉は紛れもなく神の言葉である。このようなプレートが数百メートルごとに家の壁に貼られているのである。単調な運転をしながら、これらの点々と続く御言葉が次々に目に入るのである。私が走った東北の道にはほとんどこのようなプレートが貼られていた。こうして私はドライブをしながら、否応なく目に入るこれらの御言葉を読み漁り、結局霊的にはとても助けを受けている自分を見いだした。もともとドライブは好きなほうであるが、今夏はほとんど疲れを知らなかったのである。「御霊は死ぬべきからだにも命を与える」とあるとおりであった。
(注)聞くところによると宮城県の丸森町で集団生活をして自活しているクリスチャンたちがおり、これらのプレートは彼らの働きによるとのことである。よく年末に新宿などで高い竿の先にスピーカーをつけて、「神を信じなさい。悔い改めて神に立ち返りなさい」と宣教している人々がおりますが、彼らはそこから伝道に来ているとのこと。
■霊的にほとんど眠っている感のある東北地方の中で、このような形で神の言葉の種が蒔かれていることに感動を覚えるとともに、日本の霊的光景の典型を見た思いがした。霊的な眠りの中で何でもありの様相を呈しつつ、一方ではその眠りを暴力的に覚まされ、脅威を覚えつつ否応なく西欧の外見のみを真似してきた日本。内なる本心と外見のこの乖離。これはまさに分裂病者の内的世界そのものであると再認識した。本当は日本はこのような母なる深い自然に抱かれて、その胸の中で静かに眠っていたかったのである。自然への畏敬の念から生じるアニミズム的世界観に埋没していることはとても安楽である。人間関係においてもイエスとノーを明確にしないことにより摩擦を回避でき、自我の確立などというエネルギーを要求される内的作業も必要ない。集落・村落単位の血縁地縁関係を中心としたコミュニティーの中だけで、自己を主張せず他者の中に埋没して生きることこそ日本人の生き方なのである。
■このような中にあっては、イエスはキリストであることを認めるか否か、イエスかノーか、と迫る私たちの信仰は確かに場違いの感じがする。結局、その問いに答えることを回避しつつ、無理やりに目覚めさせられた近代の日本の自我は、霊的側面は無視して、いわゆる西欧の文明のみを取り込み、外観だけを取り繕ってきたのである。精神分析学的には脅威を与える他者との同一視による防衛機制と言われる精神病理である。敵に対する対応は、相手が自分と同等あるいは弱い場合には攻撃するが、相手が自分よりも絶対的に強大な場合、相手に屈することによる屈辱感を補償するために、相手と自分を同一視してその葛藤を回避しようとするわけである。しかし昨今すでにほころびをそのような形で取り繕い得ない状況に至っているわけである。一旦いわゆる近代的自我に目覚めさせられた以上、霊的な葛藤を徹底的に解決しない以上、自我の分裂に苦しむことになるが、未だにそのような根本的な清算を成し得ていない現代日本の病理の根源を、東北の道を走りながら、つらつらと思い巡らす旅であった。(1999.08.24)