(注)昨年10月に韓国籍の兄弟が刺殺された時、徐師はあまりのショックに韓国への帰国を考えたが、兄弟姉妹から慰留を求められた。迷っている中で、佐藤牧師は、「では、ぼくと結婚しましょう」と言って、お二人はこの3月に結婚された。「主の召しに応えるための結婚です。私たちは好きだからとかではなく、愛することを学ぶために、すなわち愛するために結婚しました」。こうしてカナンキリスト教会の奉仕のわざは継続されている。しかし状況はあまりにきつい。ほとんどが韓国の兄弟姉妹の捧げ物によって支えられている。佐藤師は「日本人は、自らの同胞がこのような状態にあることに目をつむっていて良いのでしょうか。韓国の兄弟姉妹に頼っているのみでよいのでしょうか」と訴えていた。また一方で、「ここでは神が無から有を生じさせるお方であることを経験できます。見えないものこそが真理なのです」と佐藤師は笑顔で話された。
■その後、お二人に、なぜ寿町での伝道に導かれたか、寿町の実態はどのようなものであるのか等々のお話しを数時間にわたって伺った:ある日のこと、老人が一人道に横たわってたので、声をかけると、自分はもう歩けないと話したのです。どうして、と聞くと、靴下をめくって見せて、足にうじがわいているから、ときわめておだやかな表情で語ったのです。私(佐藤師)は思わず目をそむけたくなりまりした。ふくらはぎから足の先までうじ虫がたかり、しかも肉の中に穴を掘って、あちこちに穴が開いており、そこからうじ虫が顔を出しているのです。肉の色はもう赤黒くなっていました。そこでぐっしょりと湿って3重にはいている靴下を何とか脱がせると、その足からうじ虫が一斉に流れ出してきました。私は思わず、おー、主よ!と絶句してしまいました。その時、私はこの人に何をしてあげられるのかと思わず問われました。とりあえず救急車を呼びましたが、救急隊員も思わず目を背けるほどの状態でした。しかしその方が無事回復されて、私たちに対して、「ハレルヤ!」と声をかけて下さった時、本当に心の底から力が湧いてきます。マザー・テレサが、傷ついて死にかけている人々に、傷ついたキリストを見ると言っていますが、自分もそう感じるのです。神の形に造られた創造物であり、神によって霊を吹き込まれた人間の尊厳がサタンによって踏みにじられているのを見ると、主の十字架にすがるしかないのです。
またある時、集会後50代の兄弟から、「わたしの話を聞いてほしい」と乞われ、私は話しを聞きました。彼は以前勤めていた会社の事務所を自分の過失から火事を起こして燃やしてしまったのです。会社の社長は心が大きい人であったので、彼の過失を責めることも損害賠償を求めることもせずに、むしろこのまま勤めてほしいと彼を励ましたのですが、彼は良心の呵責から自分を赦せなかったのです。そして自分を責め続けて、アルコールに逃げるようになり、ついにはアル中になりました。そして私たちの教会にも来るようになったのですが、すでに肝臓がぼろぼろでアル中は進み、冬のある日ドヤの前でうずくまって冷たくなっていました。寿町ではこのような状態にある人に声をかけることもないのです。酔っぱらいが寝ているくらいにしか思えないのです。
ここに流れてくる人々は人生に疲れ、大抵心に深い傷を負っています。いつの間にか体力、気力、健康を失い、それをアルコールやギャンブルで満たそうとして、罪の虜となってしまいます。金や能力や地位や何かがあれば幸せになれる、この人に頼めば大丈夫と思って求めてきたものが自分を裏切り、むしろそれを求めたばっかりに罪を犯して悩むようになってしまうのです。それは本当の人生の目標ではないのです。かえって自分を駄目にし、不幸になっているのです。欲が孕んで、罪を産み、罪が熟して死を生む(ヤコブ1:15)の御言葉のとおりです。この罪の解決なしには私たちの救いはないのです。彼らがイエス様を知ることによって、その生活や表情が変化し、喜びをもって苦難に耐え、立ち直っていく姿を見る時、心の底からの喜びを覚えます。自分ももし会社に残っていたら、今ごろは窓際族で、人生の意義も見失っていたことでしょう。終わりの日が近いことを感じて、自分は最も価値あることをしたいのです。単なるボランティアではここでは救いはありません。ただ食料を提供したり、仕事を斡旋しても彼らは立ち直れないのです。どうしても彼らの心の空洞にイエス様を受け入れさせなくてはなりません。イエス様だけが彼らの心の傷を癒し、彼らの人生を引き受けて下さるのです、と。
■そして夜7時からの集会にも参加した。私たちどうしても独特の匂いを発散している方々ばかりで、その異臭が気になったが、賛美をする中で、キリストの香りが放たれるうちに意識しなくなってしまった。佐藤師はアコーディオン、バイオリン、トランペット、ハーモニカを演奏し賛美をリードしておられた。そして賛美の合間にホームレスの人々が証しをするのである。Aさんは30年間寿町でいわゆる手配師をして、一人頭幾らというピンはねを生業としていた。しかしそんな自分もこの5月にイエス様に出会い、その愛を知ることができた。こんな自分でも神様は赦して下ることを知った。自分は12月にぜひ洗礼を受けられるようにとがんばっている。Bさんは昔バンドを組んで活動していた。自分の友人であった「五つの赤い風船」が解散する時、自分が作詞作曲した曲をプレゼントしたのだか、今回その曲を賛美歌としてアレンジしてので、ここで披露すると言って、やはり元ミュージシャンのCさんと共にギターを弾きながら、ご自分の作詞作曲した曲を披露して下さったのである。合わせてこのHPのリンクにもある"Hearty Party"の「はーちゃん」がエレクトーンを弾き、佐藤師がハーモニカ、婦人がタンバリン、そして一人の兄弟がドラムを叩き、その賛美を盛り上げたのである。彼らの表情を見ると喜びで輝いているのである。佐藤師は「彼らがイエス様を知らなくても、教会で賛美をしている間だけは、自分の生活を忘れて天国の思いを得ていただきたいと願っている。そして死の瞬間にでもいいから、イエスと共に十字架につけられた一人の強盗のように、イエスを信じてほしい」と言われたが、その通りに彼らは天国を味わっているのだ。
また別の主日礼拝の後、寿町の中心を佐藤師と一緒に、祈りながら歩いた。驚いたことに、集会で主を賛美し、祈り、献金していた兄弟たちが、毛布に包まって路上で、また段ボールの囲いの中で寝ていた。私は彼らが少なくとも3畳ではあるかも知れないが、簡易宿舎(ドヤ)に住んでいるものと思っていた。一人の老人(かつて足にウジの湧いた方。実際は53歳位であるそうだが、その痩せこけた風貌は7、80にも見える)が、センターのコンクリの上に、倒れるようにして横たわっていた。話しかけると、「オレは・・・もう・・・どこかに行きてえ・・・」と、うめくようにもらした。生きるすべも、生きる気力すら完全にない。世の中からは忘れ去られた魂。彼にあるのは残された寿町での有り余る時間・・・。彼には社会的な束縛はない。しかしただこのどうしようもない絶望的無為の時間に拘束されているのだ。来る日も来る日も・・・。佐藤師によると過去に相当に悪どいことをしてきた人らしい。彼にはこちらで罪を指摘する必要はない。もう十分に自分の良心の呵責に打ちのめされているのだ。ふと見上げると、ランドマークタワーに美しい明かりがともり、その威容を誇っている。近くには横浜球場、中華街、長者町、山下町、山下公園、それらの横浜ブランドの象徴に囲まれた、ほんの200M×400Mほどの一帯がこの寿町である。何という対比。ここに1日1日を生き延びるために数千人が暮らしている。
■アルコールやギャンブルが虚しく、何の救いももたらさないことは、私たち以上に彼らは知っているのである。しかし抜けられない。ますます自分を責め、身の置きどころを失い、ますますアルコールに身をやつす。みな寿町に流れてきた時には、一日も早くこの町から抜け出したいと願っているのである。しかしできない・・・アルコールに逃げる。自分を責める。人から屑のごとくに扱われて心は傷つく。またアルコールに逃げる・・・こうして絶望的な悪循環に陥るのである。これを断ち切ることができるお方はただイエス様のみである。そして実際その通りにイエス様はすばらしい業を成して下さっているのである。「貧しい者はさいわいだ。悲しんでいる者はさいわいだ。飢えている者はさいわいだ・・・」と彼らに面と向かって語りかけるには、こちらに本当の神様への愛と信仰がなければなし得ないことである。彼らは実際に「日ごとの糧を今日もお与え下さい」と祈らなければ生きていけないのである!エリヤにカラスが食料を運んだ奇跡がここでは日ごとに必要なのである。このイエス様の言葉の真実さを身をもって経験する場面に日々直面しているのである。エリヤの神はどこにいるのか、と日々問われる町なのである。
自分の心を振り返って、自分は本当にこれらのイエス様の言葉を信じているのだろうか、自分はどこに自分の心を置いているのだろうか、自分は御言葉のみに頼っているのだろうか、この世のものに心を置いていないだろうか・・・彼らを見ているとこれらの問いに真実に直面せざるを得ない。そして自分の心の不純が見えてくるのである。もし自分がホームレスになった時、佐藤牧師から福音を聞き、彼らと同じように賛美と証しができるであろうか、と自分の心に問う時、自分は神を呪ってしまうであろうことを認めざるを得ないのである。ああ、神様に真に恵まれているのは彼らである。来るべき日にあって彼らが得る報いははるかに大きいのである。彼らは何もない所で、体を張って神様を愛しているのだ。主によってのみ喜びをなしているのである。ここにあって私は、ただ自分への神の憐れみを求めることしかできなくなってしまうのだ。自分の心が裸にされてしまうのである。ウォッチマン・二ーは、イエスのために自分を無駄に注ぎ出すことが福音の究極の目的である、と言った。そして彼はその通りに生きて、ボロぞうきんのようにトラクターの上で召された。寿町での伝道ではその言葉が重い。(1999.08.26/08.30加筆/09.12佐藤師による校閲修正)