(1)このような状態に立ち至ったのは私の不誠実と自己本位という罪の招く当然の結果でした。これはごく普通にこの世において起きている事態であって、これ自体には何らの特別な要素もありません。
(2)私がこのような状態にあったとき、一人のクリスチャンと出会った事件は、当時の私は単なる偶然と思っておりました。しかしながら、どうしてそのような時に彼がそこにいてくれたのか、これはとても不思議な事実です。ここに私の意志が関与する余地はありません。 生命 の存在の場合と同様に、それを単なる偶然(確率論)と見るか、誰かが用意してくれた(神の摂理)と見るか、これが不信仰と信仰の分岐点です。
(3)御言葉に対して私の内なる欲求が生じたわけです。この欲求自体は私が意志でコントロールできるものではありませんでした。喉の渇きが生じるのと同様の事態です。ここには私の意志は直接的には反映しませんが、それ以前の事態を招くにあたっては、利己主義的な自分の意志の働きが大きな原因であったわけです。
(4)内なる渇きを癒したいという願いを得て意志表示をしたわけです。これはまったく自分の自由意志を用いた結果でした。喉の渇きを癒すのに、水を飲むのか、コーラを飲むのか、その対象を選択するのとまったく同様のプロセスであり、私はイエスによって癒されることを 選択した わけです。
(5)私の意志表示を神は受け入れてくださり、それに応えてくださった結果です。ここには私の意志と神の意志がちょうど凹と凸のように見事にはまりあっています。
以上をまとめますと、私が自分ではどうしようもない事態に立ち至っていたとき、たまたま出会った人を通して聖書の言葉を聞き、それを受けたいという欲求が私に生じたため、その意志表示をしたところ、それが受け入れられて神の救いを得たとなります。
ここで神の意志と人の意志に関して整理してみましょう。神はすべての人が救いを受けることを意図されます(
神の意志
)。そのための手順はイエスによってすでに完了しています(
神のわざ
)。後は人が自由意志をもってそれにどう応答するか(
人の意志=信仰
)が残されているわけです。
この辺りはクリスチャンにとりまして、一人一人の経験がすべて異なりながらも、それぞれみな素晴らしいプロセスであり
、
神の意志と人の意志が微妙に綾なされて構成されています。
ですから、とても一般論として思弁的あるいは哲学的論考に乗せることができないのです。ただ言えることは
、求めれば得られる、叩けば開かれる、捜せば見出す
ということです。そしてここには人の自由意志が最大限働く余地があるのです!