贖いとは
贖いの語義は「代価を払って買い戻すこと」です。人は罪を犯した後、サタンにその支配権を握られて、サタンの圧迫の下において罪に縛られた生き方を余儀なくされました。人は生まれながらにして罪を犯すことが習い性となってしまったのです。人は生まれてから初めて罪を犯した瞬間に罪人になるのではなく、もともと罪人だから自ずと罪を犯してしまうのです。サタンはあらゆる誘惑と圧迫によって人を罪へと誘います。またそれに応じてしまうのが罪の支配下にある人の事実です。
神は罪を明らかにするために人に律法を与えました。善悪に対する絶対的価値基準を持たない日本人はしばしば「人に迷惑をかけなければ何をしても良い」と自己弁護しながら、例えば女子高校生などが「援助交際」などをしていますが、神の基準から見たら、それは明らかな罪であります。もし律法を持たなくても人には良心があり、その良心が罪を罪として認めております。だから人は良心がとがめるとき、自己弁護をするわけです。このように律法や良心に従って罪を犯さない生き方を願ってはいても、人は必ずその禁を破り、罪へと走ります。要するに罪の奴隷状態にあるわけです。
しかしながらここで大切なのは、神が人に律法を与えられたのは、人がそれを守ることを意図されたのではありませんでした。神は人がその律法を守ることができないと初めから知っておられたのです。律法はあくまでも人にその罪を提示し、人が罪の意識を得るために与えられたのでした。そして律法は人を罪の下に閉じ込める役割を果たし、むしろ人は律法によってますますその罪を意識させられるようになったのです。自分で善をなそうとすればするほど、人は自分がそれをなし得ないことを意識し、葛藤を深めます(ローマ書7章)。この律法は人の罪を暴き、人の無力を知らしめ、人を絶望へと陥らせるかのように感じられますが、実は人が自分の罪と無力を知るならば、神に救いを求めるように誘導する役割を持っていたのです。自力の救いから、神による他力の救いへと人を促す役割がもともと神の意図された律法の機能なのです(→「律法と恵みについて」参照)。人が自分の努力において絶望に至るとき、実はそれは幸いな瞬間であって、イエスがその御手を添えてくださるのです。
古代社会においては奴隷が解放されるためには、誰かがその人のために代価を払う必要がありました。これが贖いです。そして私たちが罪の奴隷から解放されるためには、罪を知らない神の小羊イエスの貴い血潮がその代価として必要だったのです。イエスの血は私たちの罪を洗い流して、私たちを覆ってくれますが、同時に律法によって罪の下に束縛された奴隷状態からの解放に必要な代価でもあったのです。ここで注意して下さい。サタンの下から贖われたのではありません。贖いは正当な行為です。サタンの束縛は不法ですから、それに贖いは要りません。私たちは律法の束縛と呪いから贖われたのです(ガラテヤ9:13,Gal 9:13)。
信じる者はイエスの血によって神に買い戻され、神に属する自由人へと変えていただけたのです。よってサタンの恐れと不安による支配から自由にされ、神の愛と恵による支配へと移されたのです。もはや自分で律法を守る努力は不要となります。律法を完全に守って生きてくださったイエスの義を着せていただけるからです。これが人を奴隷状態に束縛する律法に対して、神が授けてくださる恵みの効力です。
贖いとは一言で言って、律法による罪の奴隷状態から、恵みによる自由へとイエスの血という代価によって移し変えられることに他なりません。信じる者は死んでいた霊を再生されて、再び神と交わりが持てる者とされ、聖霊の働きによりその魂を聖化されつつあり、そして最後にイエス・キリストの再臨とともに、病にも死にも犯されることのない復活のイエスと同様の栄光の体へと変化させられるのです。現在は「霊→魂→体」へと至る救いのプロセスであって、最後の体の贖いこそ私たちの栄光の望みであり(ローマ8:23)、神の意図される究極の贖いの計画です。
(C)唐沢治