(注)私は断食や徹夜の祈りなどを否定しているのではありません。それは私たちの切実な訴えをする際の私たちの実際の態度です。しかし、神が祈りに答えてくださるのは、私たちの何かによるのではなく、神の御性質と御旨によることを指摘したいのです。そのような祈りがかなった時、私たちは自分が断食したからだ、自分が徹夜したからだ、と自分の何かの功績に帰するのではなく、神が愛と慈しみと憐れみに富んでいるお方だからだと、と栄光を神に帰するかどうかの問題です。
「癒しについて」でも述べましたが、信仰がなければ神によしとされません。なぜなら「信仰によらないものはすべて罪である」からです。しかるに信仰とは強く念じたり、イメージしたりすることでもありません。信仰とはその相手の性質・価値観・能力・嗜好などを私たちが知った分だけ、私たちの内側に養われるのです。相手を知らずにどうして相手に何かを求めたり、何かをいただいたりできるでしょうか?神は愛ですから、神に愛を求めれば神からいただけます。神は救い主ですから、神に救いを求めればいただけます。神は与え主ですから、私たちの必要を満たしていただけます。そして神は癒し主ですから、病の癒しを求めれば癒していただけます。
神の神たる方にそぐう祈りならば必ず聞いていただけます。しかしそぐわないものはどんなに努力しても失望に終わるでしょう。効果的な祈りとは方法論ではなく、神をどれだけ知っているかによります。祈りのコツは次の聖句に凝縮されています:
信じるならば何でも求めなさい、そうすれば与えられます、とは何と大胆な約束でしょう!ポイントは、信じるならばです!ではどうやって信じるのでしょう。わたしたちがイエスにとどまり、イエスの言葉がわたしたちにとどまることによります。その時ただ単純に御言葉とイエスを信じることができ、すると私たちの功績とか、私たちの敬虔さとか、私たちの熱心さなど、私たちの何かによることなく、神がその信仰通りにして下さるのです。私たちによるのではありません。私たちはもともと神から何かを受けるにまったく値しない存在でしたが、ただ信じたとき、神は永遠の命を与えて下さいました。あらゆる事はみなこの原則によります。すなわち神の恵みです。神の恵みとはそれにふさわしくない存在が、一方的な神のいさおしによって、神から何かを得られることです。
私たちは自分の信仰の領域において、大胆に信じて、求めることができるのです。その時、何でも祈り求めたことはすでにかなえられたと知ることができ、したがって私たちのその信仰に従って何でも与えられるのです。何と言う約束でしょう!