神は御自身の創造の最高傑作である人間と関係(交わり)を持つことを願われます。しかも神は無秩序の神ではなく、自然界は秩序だった美しい自然界の法則で支配されているように、御自身と人間との関係もある契約にしたがって成立されます。すなわち聖書で言う契約とは、一言で定義すると、「神と人の関係のあり方」のことです。すでに述べましたように、この契約には2種類のものがあります。「旧契約」と「新契約」です。この図はモーセ律法を現代においても適用すべしとする再建主義の理解とDr.Lukeの理解をまとめたものです。
律法は人類が罪の促しによって滅びるのを防止するため、養育係としてそのうちに守ったのです。この意味で神の愛のご配慮(恵み)です。しかし、それは私たちの内なる罪の存在を暴き、私たちが戒めを守ろうとすればするほど、むしろ罪の深みにはまるという罪の奴隷状態にあることを、私たちが知るに至り(→この精神病理については「罪とは?」参照)、ついには救い主の必要性を認めるに至るために、神が仕組まれたものだったのです(ガラテヤ3:19)。この意味で旧契約は不完全であり、いのちを与えることができないものでした(ガラテヤ3:21)。旧約聖書においては、律法を守ろうとするイスラエルの民の繰り返される失敗の様が何度も何度も提示されています。それは絶望的なあがきでした。人は律法によっては決して義とされることがないのです(ガラテヤ2:16)。
時至り、神は御子イエスを地上に遣わして下さいました。イエスが提供された契約は新契約であり、それは恵みによって神と人が関わりを持つことです。恵みとは、本来それに値し得ない存在である私たちが、神の一方的ないさおしによって、神から様々なものをいただくことができることです。もちろん恵みは旧約時代にも働いております(⇒「旧約の救いと新約の救い」)。新約は恵みが実体化された契約と言えます。しかしそのためには御子イエスにとっては、律法を完全に守り、かつ十字架という過酷な過程を経る必要がありました。
神は無秩序の神ではありませんから、律法をないがしろにはできず、また律法を守り得ない人に何らかの処置をする必要があったのです。このためにイエスは御自身は何らの罪のない存在であったにも関わらず、罪人である私たちと同一視されることによって、十字架で裁きを受けて下さったわけです。私たちは信仰がありさえすればその事実に直ちに与ることができ、神との愛の関係をもつことができますが、イエスにとっては御自身の血を流し、肉体を裂くというそれは大きな代価を払うことであったのです。
そして現在、信じる私たちと律法の関係は、私たちと罪との関係と同様に、私たちは律法に対して死んでいるため、律法から解放されたのです:
律法を守れない者は死をもって代価を払うべきなのですが、私たちはキリストと共にすでに十字架で死んだのです(ローマ6:6)。つまり私たちは死によってすでに代価を払ったのです。この"私の死"を真に知ることは解放です!内住の罪からの解放と律法からの解放は共にイエスと共なる十字架における死によります(→「罪とは?」参照)。そして今や復活のイエスと同一視されて、新しいいのちを御霊によって生きるのです。そのためにキリストは律法を終わらせ(ローマ10:4)、さらにまさるいのちの御霊の法則を導入してくださったのです(ローマ8:2)。この時に祭司制度も変更されました(ヘブル7章)。
これはすべて恵みによります(エペソ2:8)。一言で言って、恵みとは、私たちがイエスの死と復活に同一視されることにより、私たちの負っている負の資産とイエスの所有される正の資産(富)を交換することと定義できます。そのために私たちの側に要求されるものはただ信仰だけです。信仰によって、イエスが成し遂げてくださった新契約の効力が、私たちにも適用されるのです。新契約においては、あらゆる神との関係はすべて信仰によって、神の恵みに基づいて成立されます。その新契約はイエスの血によって締結され、批准されたのです。まとめますと:
律法は神の聖の本質を |
恵みは神の聖の本質をイエスに |
律法は私達に行いを |
恵みは私達に信仰を |
律法は私達が神のため
何かする |
恵みは神が私達のため
何かして |
律法は私達が独力で神の基準に |
恵みは聖霊が私達の内で神の基準を |
旧約は双務契約でした。つまり人が神の律法を遵守すれば、神の祝福を得るという形です。しかし新約は、律法を守れない人の弱さを知っておられる神ご自身が自ら人になり、神と人の両当事者側の契約事項を神-人であるイエスにあって果たして下さったのです。つまり新約は片務契約です。私たちはその法的効果を信仰によって得ます。さらに旧約の致命的な欠陥は、神の基準を生きることのできるいのちを与えることがないことです(ガラテヤ3:21)。新約は神の基準を生きることのできるいのちを与えるのです(ローマ8:2、1コリント15:45)。
今や古くて不完全な、死をもたらす契約は過ぎ去り、イエスにあって新しくて完全な、いのちをもたらす契約
が到来しているのです。私たちがそれをただ信じる時―信仰によって応答する時―ハレルヤ、ただちにその契約の中に入ることができるのです。信じることこそ神のわざです(ヨハネ6:29)。何と言う特権でしょう!