異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、誰も聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために人に向かって話します。異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます・・・預言することを熱心に求めなさい。異言を話すことを禁じてはいけません(1コリント14章)。
私はこれらの御言葉を解釈する意図はありません。ただこの御言葉どおりを受け入れたいと願います。私自身について触れますと、異言でよく祈ります。特に自分では何をどう祈ったら良いのか分らないとき、あまりにも自分の置かれた状況が緊迫しているとき、御霊により頼みますと、自分の知性では理解できない言葉あるいは音が口から出ます。その時私の霊は混乱した思いから解放されて心に平安・安息・喜びが満ちてくるのを感じられます。そのような時、わたしの知性は何をどう祈ってよいのか分からないのですが、聖霊は最適のとりなしの祈りをして下さるのです。ただし互いに異言を語り合うクリスチャンと共にいる時以外には、自分一人の場合が多いです。相手によっては時にわたしの異言がつまづきとなり得るからです。
そして間違えてはいけないのは、クリスチャンであればみな異言を語るべきだとか、異言を語れない者はクリスチャンではないなどということはありません。異言とはあくまでひとつの賜物ですから、ある人はそれを受けており、ある人は受けていないのです。キリストの体には様々な機能が分かち与えられているのです。