前回までユダヤ人の病理を論じてきましたが、こうしてみますと、どこか日本人の病理ととてもよく似ている感じがあります。まず第一にその血統的アイデンティティにおける不明確性と意識的アイデンティティにおける排他的尊大さ、また歴史的事件による自我の分裂要因(これについては「君が代・日の丸に思う」をご参照ください)、そして自己完結的閉鎖性、尊大な自尊心と臆病さ、潔癖さやまじめさ、あるいは頑固さ・頑なさの形で表れる強迫傾向、外柔内剛的性質、儀式やしきたりに対するこだわり、さらにはローマに追い詰められてマサダの要塞で「生きて虜囚の辱めを受けず」の集団自決に現れる大和魂ならぬ「マサダ魂」など・・・これらの要因は両者にあってきわめて共通の要因です。 一方は砂漠の地において牧畜を中心としたキャラバン生活を送りつつ、神から律法を委ねられ、数々の悲劇と試練を経て、高度の知性を持ちつつも、なおもイエス・キリストを拒み続ける民、他方は緑豊かな自然に恵まれ、唯一の人格神を知らず、森の精・山の精といったアニミズム的世界に埋没してつつ、見かけは科学技術立国して立ちつつも、その裏には呪術などが今だにはびこり、イエス・キリストに無頓着かあるいは意図的に拒み続ける民。両者は神のエコノミーにおける位置はまったく両極端にあるのですが、きわめて類似しているのです。 ユダヤ人と日本人については、かの偽ユダヤ人イザヤ・ベンダサン(山本七平)氏以来、マスコミでも注目を集め、繰り返し論じられています。最近新たにいわゆる失われた十部族のその後の運命について、日本に入っているとする「日ユ同祖論」が各方面で新たに取り上げられています。いわく、日本古来の神道のしきたりや宮の構造、神輿の担ぎ方、装束などがユダヤ教のしきたりや神殿の構造、契約の箱の担ぎ方、装束とひじょうに似ていること、またラビ・トケイヤーなどのユダヤ人が日本に来たときに覚える親和感と安心感、日本人の顔にユダヤ人の面影を見出すこと、文字や言葉の中にヘブル語と共通する単語がたくさんあることなど・・・。 一説には天皇家の宝物殿には主の名YHWHがその裏に書かれた鏡もあるということです。これらのことからアッシリヤに連れ去られた十部族は日本に辿り着いて、日本の基礎を作ったとしています。また秦氏などはユダヤ教から改宗したネストリウス派クリスチャンであり、古代日本文化の基礎を作ったなどの説もあります。私は、アブラハムによるイサク献納の儀式と"同一"の御頭祭をする守矢山(モリヤ山)のある諏訪が出身地ですので、少なからずこれらトピックには関心があります。確かになかなか私たちの好奇心をくすぐり、関心をかきたてるトピックではあります。 が、神のエコノミーの全体からするとあまり本質ではありません。私はユダヤ人と日本人の血統的同一性について論じるだけの資料や知識を持ち合わせておりませんので、その説に水を差すこともするつもりもなく、擁護するつもりもありませんが、いずれにしろユダヤ人と日本人の精神病理のレベルでの類似性あるいは共通性については否定できないと感じております。この病理が一種の共鳴現象を起こして、一方ではユダヤ人に対する熱心な入れ込み、他方では排撃がなされるように感じます。人は自分と何かを共有する対象にはなかなか中立的立場は取れないものです。 ■日本人の霊的精神病理 すでに別の機会に日本人の内的自我と外的自我の分裂については論じていますので、今回はその精神病理と霊的要因との関わりについて論じたいと思います。すでに述べましたようにユダヤ人も形あるいは影であるユダヤ教は信奉しても、その実体であるイエス・キリストを拒み、その罪悪感を抑圧し、形式だけを強迫反復的に繰り返し、一種の自閉的霊的世界の中に閉じこもっています。日本人は唯一神を知らないままに、アニミズム的礼拝にとどまり、やはり一種の形式にのっとり、霊的自閉空間でそれを強迫反復的に繰り返しています。この閉鎖空間での強迫反復は霊的ヴァーチャル空間でのフェイクであって、この点は両者の本質的共通要因であり、その病理の原因は何らかの真実の抑圧あるいは隠蔽にあります。原初的に何らかの真実からの逃避あるいは回避よって、その真実を抑圧をするための取り繕いと言えます。 日本人の場合、アメリカによって自己の意志に反して暴力的に開国を余儀なくされた事実がトラウマとしての原初体験になっているという説はすでに述べています。この論の提唱者である精神分析学者岸田秀氏は、実はこの開国以前にもすでに何らかの真実を抑圧する場面があったであろうことを述べています。例えば大和朝廷が成立する以前にすでに新羅やミナマの実質的植民地であったのではないかなどの見方です。ですから日本国家はすべてこの真実から逃避の上に成り立っており、強迫反復の上に立ついわばフェイク(擬似物)であるとしています(『官僚病の起源』)。日本人の精神構造の深部にはユダヤ人のそれと同様に何かの真実が隠蔽されており、それに触れることはタブーなのです。 ■天皇制の問題 人は霊的次元から切り離された結果、内側に本質的に霊的真空領域を抱えています。この空虚を何らかの形で埋める必要があり、様々のカルト(礼拝)を発明してきました。これらがいわゆる宗教を形成するわけですが、要するに何かを礼拝したいという強い欲求が満たされていないままに存在するのです。この礼拝欲求あるいは霊的真空を充足するための試みとして、宗教の形式をとらないまでも、自己流の"礼拝対象"を作り上げます。 例えば芸能界やスポーツ界のアイドルなどはその典型であり、大衆は自らの内側にある満たされていない何かの欲求をアイドルの上に投影して、アイドルの言動・行動の中において代償的にその充足を得るわけです。アイドルに入れ込む人々の心理は、第三者にはまったく理解不能のものとなります。いわばアイドルとは真っ白なキャンパスのようなものであり、あまり自己主張することなく、大衆の埋もれた願望を自由に描き出せるものであればあるほど、いわゆる人気は高まります。ここに働いている精神病理は投影です。 すでに述べましたように、この投影によってパラノイドの心理に陥り、その閉鎖性と排他性を深めるわけですが、このとき同時に純化あるいは美化の過程も進みます。自ら投影した理想像をその閉鎖的空間の中で純化し、美化するわけです。これは例えばカトリックにおけるマリア礼拝にも通じる要因であり、男性が女性に求める処女性が極地まで純化・美化された形式と言えます。要するに汚れていないこと、これがアイドルの絶対的要件です。 実は日本の天皇においてもこの精神病理が働いています。実際日本の天皇家はイギリス王室に比べればスキャンダルはなく、その純潔さはきわめて高いと言えます。人格的にも素晴らしい人々であることは認めますが、しかし皇室は閉鎖空間であり、われわれの日常性から切り離され、大衆の内的欲求をすべて投影するキャンバスになっています。つまりアイドルなのです。しかもアイドルたる条件をほとんど100%満たしていると言えます。しかも皇室の場合、神道との関わりにおいて霊的要因アニミズムの傾向が強く働いています。天皇制はこのような精神病理と霊的要因が複雑に錯綜してすでに霊的な要塞化しています。 ■閉鎖性と純化の過程 この霊的真空を代償的に満たす機能を果たすと同時に、私たち日本人の精神病理である甘えを投影し、それを代償的にかつ自閉的空間で満たす対象としても機能しています。皇室に対して寄せる気持ちには多分に充足されていない甘えを満たしてくれるであろうと言う期待感に支えられています。しかも皇室は大衆との実際的接触はありませんから、大衆が投影した甘えは決して裏切られることはありません。 そして実はこれは皇室ばかりでなく、一般社会においても何でも受け入れ、許し、支え、励ましてくれる人物、しかもあまり自己の意見とか他人にうるさく言うことはない人物、このような人物が団体のシンボル的存在として求められます。実際このような人物をいただいた団体は、ますますその人物のアイドル性が純化・美化されていきます。ただし俗世ではこのアイドルがしばしばぼろを出すことがあり、その時点でその団体は終わります。大抵の新興宗教の教祖はこのパタンにはまっています。 このようにしてアイドルは神聖にして犯すべからずの境地にまで高められ、あるときには礼拝対象とすらなり得ます。要するに日本人のアニミズム志向と甘えの精神病理が絡んでいわゆる天皇制が成立するわけです。そしてこのメカニズムはユダヤ人における「メシア待望願望」と共通する要因があります。ユダヤ人は迫害の中でその苦難が大きければ大きいほど、充足されていない内的願望を投影し、自分を解放してくれるであろう「メシア」をアイドル化し、純化し、美化していきます。しかしあのナザレのイエスはその像からあまりにもかけ離れた存在であったのです。 ■私たちの陥り易い罠 さてここで日本人クリスチャンとしての私たちのユダヤ人に対する態度に関して触れます。このような自己の内にある願望を外部に投影して、その対象をアイドル化し、ある種の神秘的かつタブー的存在に祭り上げることは私たちクリスチャンでもよく陥る罠です。特にユダヤ人に対してある種の特別な神秘的な要因を付与し、例えば最近流行のメシアニック・ジュー(ナザレのイエスをメシアと認めるユダヤ教徒)がリバイバルや神の経綸の鍵を握っていると言った考え方が生まれます。上の「日ユ同祖論」も同じ病理による部分が大きいでしょう。 ユダヤ人と教会(特に異邦人)の関係はローマ書9-11章にある通りであって、この真理に個人的好みとかある種の思い入れを付加することに対しては私は十分注意すべきであると考えます。特にユダヤ人の病理は日本人の病理と共通する部分があり、容易に共鳴現象を起こします。神の目にとって今日そして永遠においてもキリストのいのちを御霊によって吹き込まれた教会(エクレシア)を得ることが本質的なのです。神の目から見て、教会、メシアニック・ジュー、ユダヤ人というカテゴリーがあるわけではなく、キリストにある種族と、アダムにある種族の二種しかないのです。 物理的イスラエルの状況は不可視的エクレシアの表現である可視的教会の成長の状況と密接にシンクロしています。私たちは物理的イスラエルの状況を私たち自身の鏡とすればよいのです。神はそこから語られます。物理的イスラエルの状況は単独に進むのではなく、教会の成長に関わっており、花嫁である教会が熟する時、キリストはご自身の元に迎えるために再臨されるのです。物理的イスラエルは教会の成長のバロメータです。私たちの信仰の対象はただキリストであり、キリストは今日教会において実体化されているのです。キリスト以外に他の何かの要素を付け加えることは決してあってはなりません。 |