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クオリア的生き方

この休み中に少々ヒゲを伸ばしてみた。私は若いころは老けて見られたが、最近は40台前半くらいに若く見られる。で、頭の方がややさみしくなっているので(汗)、ちょっと顔の方にと・・・。けっこう渋みが出たかと鏡を覗いて勝手に思っている。(が、カミさんと子供たちにはなぜか不評・・・)

昨日精神と物理化学現象の関係に興味があると書いたが、実はこの大脳が大脳を果たした理解し得るかどうかは分からないのだ。解剖学的にはニューロンのネットワークが徐々に分かっているし、神経生理学でもシナプスでの化学物質の働きなども解明されてきている。

しかしDNAの4つの塩基配列による遺伝情報の保存と再生のメカニズムのような根本的パラダイムが未だに分かっていない。(フォン・ノイマン型)コンピューターはONとOFFの二進数によって、AND回路やOR回路を組み合わせているだけ。その原理はきわめて単純。脳もそれと似ているが、しかしシナプスでのアナログ的要素があって、コンピューターとは相当に異なる。

この意味で私たちサイエンティストは常に己の限界がどこにあるのかと自問自答しつつ話を進めているわけ。デジカメでも画素数によって映像の質が決定してしまう。例えば一画素が1mm四方であれば、それよりも小さい物の像は決して写せない。CDなどもサンプリング間隔で周波数帯域が制限される。これと同じように大脳、そして言語と論理においてもある種の解像度と言うか、理解し得る限界があるのだ。果たして大脳の原理はこの限界の中に納まるのかどうか・・・。

対して神学者は愚かにも神を人間の言語と論理の中に収めようとしている。いや真摯かつ謙虚な神学者も多いのであろうが、己の解像度を知ることなく、自分の愚かさを曝しているだけの御仁もいるようだ。

言語と論理は大脳の、特に左脳の働きのひとつの表現であるが、右脳の感性やイメージはどう見ても表現し得ない。これを最近では「クオリア」と呼んでいる。これを提唱した人物は、布団に包まってぬくぬくとしている時の感覚と喩えているが、実は私はこの「クオリア」が大好きなのだ。温泉もそのひとつかな?トロトロと夢うつつに頭を使う大脳のアイドリング的・緩衝的働きと言える。

クリスチャンも左脳的(理屈と自己努力の世界)になるとクルシチャン化するが、右脳的(直感的感性と信頼の世界)に生きればこの「(霊的)クオリア」を楽しむことができる。昨年暮から正月まで各教会は様々なイベントでけっこう忙しかったようであるが、私は3週間たっぷりこの「クオリア」を楽しんだ。物理的にも、精神的にも、霊的にもぬくぬく感を楽しんでいたいのだ。

(本音:リバイバルのために、祈って、祈って、祈りぬけ!とか、徹底的に聖別されて、神の戦士として、戦って、戦って、戦い抜け!とか言われると、このデリケートな「クオリア」がたちまち壊れてしまうのだ。ゲンナリ・・・)

Commented by kazu 2006年01月07日(土)00:06

 こんばんわ。(&新年おめでとうございます。)

>で、頭の方がややさみしくなっているので(汗)、ちょっと顔の方にと・・・。

 お気持ちわかります・・・(うめきを共有)。
 アンドリュウ・マーレイみたいですよね^^。
でも、東洋人の顔ですとウォッチマン・二ーのような九・一分けでのカモフラージュもいいかも・・・。

 男の頭の毛が抜けても、それははげであって、その者はきよい。(レビ13:40)

 この御言葉にはハゲまされます・・・(汗涙)。

Commented by 立ち寄りびと 2006年01月07日(土)11:26

http://www.revival.co.jp/news/news01.html
↑これとかってクオリアを壊しそうですね(笑

Commented by ICHIRO 2006年01月07日(土)13:10

上のリンクの中で滝本氏が仏壇を壊せ
みたいなこと言っておられますが、
日本民族がみなクリスチャン化されると
奈良の大仏も、神社仏閣もタリバンみたいに
みんな破壊するのですかね?

Commented by Luke 2006年01月07日(土)17:07

Kazuさん、新年のご挨拶をありがとうございます。そうですね、男には男の、女には女の悩みがあるわけで・・・^^。

ICHIROさん、確かに「クリスチャンの決起」とか、「サタンに支配されたこの世の人々を霊的戦いによって奪還する」とか言われると、ちょっと引きますね。ややコワイです。私は神社や寺は結構落ち着くのです(滝元先生に言わせれば、悪霊に憑かれているかな?)。

今年も普通のおじさんとして淡々と生きるだけです。

Commented by 外科医 2006年01月08日(日)10:13

 日本人として生まれ育った滝本氏は、本当に日本人が仏壇を信仰の対象としていると思っているのでしょうか?確かに、日本的バックグランドのないアメリカの宣教師から見れば、日本人が仏壇を拝んでいるように見えるかもしれません.
 しかし、私の感覚からは、偶像というよりも、聖書で言えば、列王記や歴代誌に出てくる「王たちの墓」的な意味合いを持つ、祖先の記念碑的な意義があると思います.祖先を大切に思い(祖先が存在して遺伝子を繋いでくれたので今の私の存在があるわけですから)、偲ぶための位牌が飾られている箱だと思います.
 ですから、偶像礼拝の対象として、仏壇に対して憎悪の目を向けるのではなく、ましてや、破壊したり燃やしたり遺棄したりするのではなく、キリスト者として、仏壇に対する正しいあり方を考察する方が、日本人をキリストに導くことになるのではないかと考えます.
 列王記5章18節〜19説「主が次のことをしもべにお許しくださいますように.私の主君がリモンの神殿にはいって、そこで拝む場合、私の腕に寄りかかります.それで私もリモンの神殿で身をかがめます.私がリモンの神殿で身をかがめるとき、どうか、主がこのことをしもべにお許しくださいますように」
エリシャは彼に言った.「安心して行きなさい」そこでナアマンは彼から離れて、かなりの道のりを進んで行った.
 エリシャのような賢い解決策を、私たちも、仏壇問題で悩む日本人クリスチャンに提案できないでしょうか?
 ICHIROさんが仰っているように、神社仏閣を焼き払うなんて、言語道断です.キリスト教界は決してタリバン化してはならないと思います.
 実は、私は、神社仏閣が大好きでw、学会で地方に出かけると、必ず、当地の有名な神社仏閣を訪れ、デジカメで撮影します.また、霊山登山も大好きで、色々な霊山に愛犬と登りました.

Commented by ICHIRO 2006年01月08日(日)17:52

よかった。外科医さま、ホッとできます。
それにしまても、尾形氏は「股関節にヒビで歩けない
80歳の女性に、ペテロの水上歩行の聖句を語りつつ、
その場で歩くように勧めた。女性は車椅子から立ち
上がって10歩ほど歩くことができた」とのことですが、
これって医学的に見てこわくないですか?
聖霊派はどうもデモンストレーションばかりで
どこかこわいと感じるのですが、、、。

Commented by 外科医 2006年01月08日(日)23:07

 こんばんは.ICHIROさま.レスが遅くなりまして申し訳ありません.私は整形外科医ではありませんので、股関節骨折に関しては一般的な知識しか持ち合わせてはいないので、断定的なことは申し上げられませんが、次のようなケースが考えられると思います.
1) 骨折は治癒しているが、リハビリテーションが不十分だったため歩行困難になってしまった.股関節拘縮している.
2) 骨折は治癒していないので、歩行困難である.

1) の場合、歩行させる事は、リハビリテーションの一環として許容されるが、法律上本来は医師の指示に基づいて理学療法士が行わなければならない.
2) 言語道断!骨折が悪化した場合、傷害罪で訴えられても文句は言えません.

 いずれにしても、医師は神の許容の中で、癒しの技に携わっているわけですから、神の恵み、一般恩寵である医療を蔑ろにした妄信的癒しに対しては、私はクリスチャン医師の一人として?を附けざるを得ません.