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アソビの病理(T-6days)

私のメッセージで、「霊と魂の分離」とか、「異なる火を炊かない」とか申しますと、何でも心配になる人がいるのですね。「今、自分は霊なのか、魂なのか」とか、「自分は今異なる火を炊いて裁きを受けるのではないか」とか・・・。分かります、この心理状態。要するにアソビがない!

ある聖霊派の人はすべてを聖霊様(私はこの言い方は苦手ですが・・・)に伺いを立てて聞き従うとかの導きを受けて、家から学校まで行くのに、交差点ごとに「聖霊さま、どちらへ行くべきですか」とやっていたら、学校に着けなくなったとか・・・。ほとんど笑い話的ですが、けっこうこの手のビョウキが多いのです。

皆さん、神の導きってそんなにタイトロープを渡るようなものだと思いますか?神は私たちをそんな緊迫感の中に置かれる方だと思いますか?断じてNO!神は安息の神であり、ゆとりの神であり、自由の神であり、私たちを楽しませて下さる神です。

人にはローマ書にあるとおり、自然の人であっても律法の教えるところをなそうとする心、つまり良心(岩波訳では「内奥の意識」)がありますし、さらにマラキ書2:15には「人には霊の残りがある」と書いてあります。

霊と魂の分離とかを神経質に心配するのではなく、普通の生活においてこの自然の感覚に信頼し、素直に従っていればよいのです。それは御霊の導きと矛盾しません。再建主義ではそれを認めませんし、自然に従えば獣姦を犯すと言うほどですが(相当に病的です)、それは聖書の語ることではありません。分かりますか?

霊と魂は相互作用しながら、私たちの心の動きを綾なしています。その時に御霊は私たちの良心と共に働かれるのです。パウロはこう言っています:「私の良心も聖霊によって証ししています」と(ローマ9:1)。これが私の言う「普通の生き方」です。自然ですし、力みなく、滑らかで、楽です。

ただ私たちの肉、特に魂の中に条件付けられたアダム的な価値観や生き方に対しては諸刃の剣よりも鋭い御言葉で手術を受ける必要があります。これによって真に霊のものかどうか見極めることができます。それをして下さるのはオペの達人霊的財前五郎であるキリストです。これは時に従って神が取り扱って下さいますから、安心して任せて下さい。

自分で取り越し苦労して、自分をクルシチャン状態に追い詰めている兄弟姉妹があまりにも多過ぎます。神は私たちの父・パパ・ダディ・お父ちゃんです!パウロはこう言っています:

あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

「アバ、父よ」と呼ぶとき、内側が甘くなりませんか?神は甘美な方なのです!子たる自由をエンジョイしましょう!