* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
40分ほどジョッギング。この時期、刺すような冷たい空気が実に爽快。冬桜がチラホラと咲いているのも、またおかし。
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亀田事件などから分かることは、大衆はヒーローを求めると同時に、自己の歪んだ欲求を満足させる犠牲の供え物も求めるということ。それはローマの末期症状であった、「パンとサーカス」と同じ。
いわゆる"国民"が政治家屋に求めるのはパンであり、また大衆がネットやテレビなどのメディアで求めるのは、ローマ時代の剣闘士たちの見世物、サーカスである。彼らの特徴は匿名。決して名を名乗っては騒がない。これが当たり前になりつつあり、それに不感症になりつつある今のニッポンはほとんどローマ末期と同じ。
キリスト教界も同じ。一方で派手なパフォーマンスで人々に媚びた"福音"を語り、一方で聞きたくない真理を排除する。この"血"に飢えた大衆の欲求を上手に満たす者が時代に沿う。ニッポンキリスト教はすでに地の塩たるを得ていないまま、"リバイバル"音頭を踊っているが、その命運は明らか。また世も一度神の裁きをくぐる必要があろう。
考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。
だそうだ。彼らもある意味で、昨日書いた大衆サディズムのターゲットになった。悪でも勝てばよろしいと言う風潮がひっくり返ると大変なことになるわけ。かつて私も彼らは負けたときがコワイと指摘したが、そのとおりになったようだ。しかしガッツや輪島も言っていたが、未成年者に対して、ややマジになり過ぎている感もある。彼が反則した時の表情を見て、哀れさを覚えたのだが・・・。オヤジはもっと厳罰でよい。あの動物的なオッサン、ちょいとカナリお灸を据えて、躾けた方がよい(→参考記事)。
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私がよく使う「ビョウキ」の定義を書いておきましょう:
【ビョウキ(英:Sicko)】可算・非加算名詞、形容詞、時に副詞;自分の髪を自分で引っ張って空を飛ぼうとして苦節何十年、ひたすら神学だの教理だのを蓄えて、プライドだけ膨らませて、信仰に励むといつかは飛べると信じて、周りの忠告に耳を貸さない人々またはその病状のこと。ニッポンキリスト教に多様な様式をもって観察される。
要するに自分を相対化し客観的に見れなくなっているおめでたい人々またはその状態。
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今朝もジョッギングが気持ちイイ。いつものおじいさんやおばあさんとも顔なじみになってしまった。ニコっと微笑んだり、敬礼をしたりと言う、こういったちょっとした交流も心がほぐれるのだ。
今夜の内藤VS亀田戦は面白そう。おじさん世代としては、苦労人のおじさんチャンプ内藤に勝たせたいが、調印式のやりとりでは亀田に押されていた。月収12万円の生活を乗り越えて得たベルトを守り切れるか。「亀田が負けるのが国民の期待」と言うおじさんと、「負けたら切腹や」の若獅子、33歳と18歳。体力的には見えているが、果たしてテクでカヴァーできるかどうか・・・。
では、仕事へ・・・。
高校時代、金もないので、Onkyoなどのアンプの回路図を手に入れて、秋葉原まで出てきて部品を買い、自作したものだった。プリント基板のパタンを考えるのがけっこう面白く(当時はかなり頭が良かったかも・・・^^)、自分でエッチングして、基盤を作り、部品を半田付けした。アンプのフロントのデザインを考えるものかなり楽しく、5万円くらいのアンプを2万位で組み上げた。プリアンプとメインアンプで5万円位だったか。かくして自作のアンプと、先輩にもらったスピーカー、そして新聞配達のバイトで買ったLPプレイヤーで、一通りのコンポを組み上げて聴く音楽にかなり(自己満足的)喜びに浸ったもの。
もうこの30年以上、本格的に半田ごてを握っていないが、最近これに再度挑戦したいと言う願いが起きている(最近はパソコンは何台も組んでいるのだが・・・)。職場に真空管アンプのマニアの先生がいるのだが、この話になるとなぜか心が燃えるのだ。私はトランジスタ世代なのだが、今度は真空管アンプとターンテーブルのプレイヤーに挑戦しようかと。真空管の放つあの怪しい光に憧れるわけ。つまりアナログ回帰願望。子供たちもそろそろ終わりそうなので、ログハウスとオーディオの夢に向けて、準備をちょこちょこと始めている。Mr.Sugarは手作りの小屋を15年以上にコツコツと建てているのだが、彼の小屋にはまさに真空管アンプがピッタリだ。薪ストーブと真空管アンプ。なんとも贅沢なコラボではある。引退生活に向けて、夢は膨らむ。
(写真は昨年の夏、白川郷の帰りに寄ったカフェ)
心ののらない言葉は虚しい。
言葉にのせられない心はもどかしい。
心ののった言葉は、時に重すぎることもある。
だから、真にその心と共に御言葉に触れられたら、
私たちは神の愛に潰されてしまうかも知れない。
心があれば言葉は交わさない方がいいこともある。
−中村雅俊の『俺たちの旅』のエンディング風に・・・。
英語の講義の際、学生が「脳内メーカー」で診断したら、自分の頭の中はどうのこうの・・・と言っていたのだが、最近これってかなりブームになっているらしい。
で、好奇心旺盛な私は早速テスト。すると出てきました。わが、脳内にあるもの。思わず笑いましたね、「休」ばっかり・・・。けっこう、これ、キテルかも(笑)。
ついでに、「唐沢治高校」の校歌だとか・・・。
首筋の違和感強まりて(←当り、右首筋を痛めている)
恋に溺れる人になれ(←みたいが・・・)
留年しようそうしよう(←単位不足の悪夢をいまだに見る)
死神より怖い世間の監視(←粘着ねずみさんが・・・)
天を目指す龍が如く(←そう、鷲のように上りたい)
幼児期にヘマをして(←なんだろう?)
嗚呼 醤油切れた 唐沢治高校(←意味不明)
いやあ、このニュース、面白いですね。10万円を預ければ、毎年10万円天をもらえて、それでいくらでも買い物ができるとのこと!?これで集めた一千億円の金がそこかへ消えたとして、出資法違反で捜査を受けたこのオッサン、何だかかつての「サイコーですかぁ〜」の福永法源さまとそっくりだ。しかし実に面白い。このオッサン、いずれは日本の財政危機を「円天」で克服するのだと息巻いていたようだ。
昔「人生ゲーム」と言う双六がありまして、このゲームの中で、金持ちになったとか、破産したとか、子供の頃はかなり夢中になったもの。"金"が溜まると何となくリッチになった気分でウキウキしたもの・・・。それしてもこのようなゲームを現実にやってしまう人がいて、それに踊らされる人が少なからずいるわけだ!?驚きます。
私の好きなヴァン・ダムの映画で『ストリートファイター』と言う、元々はゲームだったのを実写化した作品がある。この中でもバイソン(ジョンイル様?)が率いる悪の帝国シャドール国(北朝鮮?)の中だけで通用する「バイソン紙幣」があるのだが、バイソンのシャドール国がヴァン・ダムら(服装がUN軍的)によって崩壊すると、その紙幣をたんまり蓄えていた男が見事にスッカラカンになる場面があるわけ。まあ、誰も将軍様の発行する紙幣などは要らないわけで・・・。
しかし考えてみると通貨は所詮国家のバックアップ、つまり信用の裏づけがあって流通しているわけで、皆が信用しているから、通貨に価値が付与されるわけだ。この信用が失われると年率1,000%のインフレにもなる。一万円札自身はどのくらいの費用で印刷されるのか分からないが、それ自体は単なる紙切れ。かといっていまさら金(ゴールド)本位制にも戻せない。しかしこの紙切れに目が眩む。経済は実は心理学。
この意味で日本国通貨に目が眩む人も、バイソン紙幣や円天に目が眩む人も、実は本質的にほとんど変わらないのかも知れない。通貨自体は便利なものであり、これがさらに電子マネーとなり、クレジットカードのようなプラスチックマネーになれば、ますます利便性は増す。しかし聖書にあるとおり、
金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。
心の置き処、拠りどころの問題。これは私自身も身をもって知っているわけで・・・。それにマネーだけでもない。世的なモノを捨てたセンセイたちがけっこう野心家だったりするわけで。所詮、人生は浮世狂言。私たちはこの世では寄留者に過ぎないのだ。が、このことをいかにしばしば忘れることか。しみじみと自分を省みるうら悲しき秋の夜ではある。
【追記】日経夕刊によると、このオッサン、「私が法律だ。よって合法である」との持論を展開しているようだ。実にオモシロイ(笑)
雨でジョッギングできないとややさみしい。午前中はプールとサウナ。しばらくぶりに1,000bをノンストップで。スイミングハイなんだろうけど、実に爽快で、30代の頃に戻っている感覚。
午後は映画『パーフェクト・ストレンジャー』。ネットの仮想空間を利用した別人化による犯罪の隠蔽。誰が真犯人か?これはなかなか面白い。昔のサンドラ・ブロックの『インターネット』をやや彷彿とする。ハル・ベリーの美しさに惹き込まれたが、やはり黒人と白人のハーフは実に深い美を持っている。
新しいCDを購入。東欧のNora Jonesと呼ばれるJana Kirshnerの"SHINE"と英国王室御用足のJazz Singer Katie Meluaの"pictures"(彼女も英国のNora Jonesらしい)。どうも女性Jazz VocalはNora Jonesが世界標準なのか?共にややハスキーな声で確かに似ている。が、リズムはJonesよりはアップテンポ。楽しめそう。
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しかしコレ、カッコいいですね。平沼氏、造反組18人に資金援助・・・落選者に月100万円。平沼氏がますます好きになりました。武士です。
ミャンマーでカメラマンの長井氏が、どうも兵士によって至近距離から、明らかに射殺されたようだ(→記事)。享年50歳。
安倍さん53歳、郷ひろみと麻原尊師が52歳・・・と言うのはすでに書いた。どうも私たちの世代は「谷間の世代」と言われ、あまりパッとしないのだが、「50歳と言う区切りは何かあるのも知れない」みたいな気分になってきた。まあ、企業でも子会社への出向とか、役所でも天下りとかの決断を迫られ、要するに選別される時期なのだ。その組織にとって役に立つかどうか。このことだけを自分のアイデンティティの担保としている者は、ここでおおいなる挫折を味わう事になる。組織と自分を同一視しているためだ。
私などは前にも書いたが、依然としてアイドリングで浪人生活を続けているようなものだから、ほとんど組織の中での位置づけには無関心だ。年収一千万を超える人は224万人だそうだが、一応その部類に入っているし、むしろ今の自由を維持し続けたいと言う願いの方が強い。なるべく負い込む仕事は避けたいし、仕事するにしても自分のペースでこなしたいわけ。
で、自分が何をしているかと言うと、何かを作り出しているわけでもなし、売っているわけでもなし。ただひたすらしゃべっているだけ。延々と自分の頭にあるものを語り出すだけ。大学でも予備校でも教会でも・・・。しかも準備の時間は限りなくゼロに近い。まあ、口先八丁なのだが、これで聴いて下さる人々が満足を得てくれることが唯一の付加価値の算出かも知れない。ちなみに仕事でチョークより重い物は持ったことがない(トレーニング以外は)。実に面白い仕事をしているものだ。
かつて80年代に堺屋太一氏が『知価革命』と言うパラダイムを提唱した。つまりモノではなく、知識に高価値が付加される時代が来ると言うわけ。私は製造業の3K実態はよくよく知っていたし、金融系の世知辛さも耐えられないし、医療の現場が修羅場であることも分かった。かくして主は耐えられない試練を避けて下さり、学生諸君を相手にする、ある意味優雅な仕事を与えて下さった。要するに知識(ソフト)を売っているわけだ。講義やメッセージをしている時、実に自分が自分でいられる快適さを享受している。ある意味、当時の堺屋太一氏が大いなるヒントをくれたとも言える。
で、ふと50歳と言う年齢をつらつらと思い巡らして、昔の写真を引っ張り出した。これははるか30年前のもの。隣の彼女は医者になって、今、都内で大きな産婦人科病院をやっている。何やらビミョーな空気が二人の間にありますね^^人と人の邂逅や別離もまた不思議なもの(あ、でも「証し」にある女性ではありません)。いやあ、思えば遠くへ来たものだ・・・。
今朝は4時半に起きた。しばし主との交わり(Dr.Lukeがこんなこと書くのは久しぶりだ、の声)。5時前からジョッギング。今、シャワーを浴びたところ。
昨日の匂いの話、実は心理学的におもしろい実験がある。私たちがコミュニケーションにおいて、互いの話を受け入れるどうかは、実はその内容の真偽にはあまりよらないのです。むしろ言語外の無意識的印象による部分が8割!
前にも書きましたが、特に臭覚は辺縁系を経由するルートをもっているため、無意識のレベルでかなりの影響力を有している。ニッポンキリスト教でしばしみられる光景は、"正しい神学"(その人にとって)を、口角泡を飛ばして議論する場面。あるいは逆に牧師顔でニコニコと、しかし目が笑っていない不自然な笑みを受けべつつ、何でも愛して赦して、ありのままのあなたが高価で尊い、とやる伝道。ところが人は無意識的にその違和感を感知しているのだ。これがニッポンキリスト教の臭い。(それにしても牧師って、派を問わず、なぜあれだけ金太郎飴なんだろう、と素朴な疑問。)
政治でも同じ。小泉氏は、間違った議論を明るく語った。例えば、自衛隊を派遣するのは非武装地域のみ、とすることについて、自衛隊が現に働いている処が非武装地域だと回答。辞書で「A」を引いたら、「Bを参照」とあり、「B」を引いたら、「Aを参照」とあるの同じ。しかしほとんどの人がそれを受け入れた!?これが大衆と言うもの。対して安倍氏は、正しいことを悲壮な様で語った。よって大衆は拒絶した。
では、私たちクリスチャンは?正しい神学を病みの状態で語るのではなく、真理を健やかさの中で語ること。非言語的コミュニケーションの影響力を私たちは決してあなどってはならない。
・論理と美しい情緒
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今日の週刊文春の記事。わが仕事場が特集されているぞ!講師室でのトピとなりそうなヨカン(汗)。
このネットと言う世界も、使う人が倒錯していれば、その世界も倒錯しますが、用いられ方次第では、素晴らしい主のいのちの祝福をシェアする事ができるメディアなのですね。あちこちに起きているBlog上での主にある交わりを感謝です。いつもひとおり皆さんのBlogを拝見しては、そこに起きている事で励まされております^^
私は何を隠そう(隠すまでもなく)もう51でありまして(「ええ、うっそー、わか〜い」との学生の声が。また若い事務員は「先生は夏が似合う方ですね」と言ってくれています。歳を取るとこういう優しい言葉が沁みる^^)、新しいものにはどうも抵抗を覚えるわけ。大体Windows95を入れたのは97年!それまではMS-DOSの真っ黒な世界に住んでいた。ケイタイもこんなもの持つかと抵抗をしていたのですが、コンタクトレンズを買った景品としてタダのPHSをもらってから、結構便利かもと言うことで使うようになった。iPodも最近ようやく買ったが、これもジョッギングの時、なかなか使える。まあ、若者よりも2,3年遅れて手を出しているような次第。
このケータイもほとんど受信と緊急連絡用(例えば高速が事故のとき、大学に連絡を入れるとか)しか使用せず、ましてメールなどはPCメールで十分だった。しかもこのケイタイ・メールのアドレスをサイトに公開していたため、来るメールはほとんどが「出会い系サイト」のスパムばかり。多い日には1日200くらい!これを削除する作業でウンザリしていたところ、何とメアドが変更できると知り(おいおい、知らなかったのかよ、との声)、変えました。しかもこれは公開していない。いやあ、静かになりました。
私のところに来る学生にもこのメアドを密かに教えてあげると、これが結構赤裸々な内容のメールを下さるわけ(おじさん的にはドギマギしてしまうわけで・・・)。本日もキャンパス内を歩いていると、女子学生が小生の方を振り向いてニコリ。誰かと思ったら、夏休み前に私の部屋に来て、ひとしきり涙を流した子だった。メールもやりとりをしていたのだが、元気そうな表情で、「先生、あたしこれから柔道するの。すごいでしょう」と。「ええ、君が柔道を!!!」とオーヴァーにビックリしてあげて、「メールありがとうね、いつでも来てね」、「はいっ!」と。こんな感じでメールは時間と空間を越えて人と人の関係を維持してくれるわけ。
で、かつてはケイタイ・メールなどはまったく打てなかった私であるが、何と最近では徐々に打てるようになって来たではないか!?「必要は上達の母」。それで分かったことであるが、学生にケイタイ・メールとPCメールを教えてあげても、彼女たちは必ずケイタイ・メールに送ってくる。これは実に不思議なのだが、最近私も少し感じつつある。それはPCメールの公的性質に比べて、ケイタイ・メールはより密やかと言うか、プライベートと言うか、デリケートと言うか、とても私性が深いのだ。
これは不思議なほどだが、私自身もPCメールで文章を書くときはどこか無機質だが、ケイタイ・メールだと何とも言えない互いの温もりと肌感覚が伝わる。これは不倫には有力な武器になるとのヨ・カ・ン(あぶない、あぶない・・・笑)。PCは自分の道具、ケイタイは自分の分身。なるほど、かくしてケイタイ文化の意味が少々実感的に把握できるようになった次第。
ちなみに世の奥さんたちは旦那のケイタイをチェックしており、旦那もアブナイ・メールはすべて削除するのだが、それでもばれるらしい。分かります?・・・それは自動予測変換機能のため。つまり「あ」と入れたとたんに、「愛してる」とか「会いたい」とかが一番上に出てきてしまうのだ!自分の奥さんにはほとんど使わない単語が!世の中便利になる反面、リスクが高まるようだ・・・汗。
というわけで、ケイタイなどはどこかにほったらかしにするものだったのだが、最近は結構大切に携帯しているのだ(だからケイタイなんだろ、の声)。ケイタイはまさにその人のパーソナリティの一部と化し、それを見られることは、自分の内面を見られることである。ケイタイは人格の拡張であり、そこに蓄積されたデータは、画像もテキストも、自分の生活、さらには人生そのものとなる。もちろんPCでもそれはあり得るが、個人性の質と深みが異なる。
ネットとケイタイ。陰湿にして暗い世界にもなり得るし、主のいのちをシェアする明るく輝く世界ともなり得る。すべてはそれを使う人次第なのだ。
最近走る事が快感になってきている。実に気持ちがイイ。βエンドルフィンによるランニング・ハイを経験しつつあるかも。
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自民党の総裁選はまたまたかつての光景を見せられている感があるが、おじさんたちも心が休まる暇がありませんね。前にも書きましたが、「末は博士か、大臣か」も死語となりつつあるが、そんなに総理大臣って魅力があるのか知らん。まあ、誰かがやってくれないと困るのですが、果たして10年後、なり手がいるかいな?
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最近CMなどでも懐かしいディスコ・ナンバーが使われたりして、私たちの青春時代に戻っている感じがありますね。『悲しきアンジー』もそうですが、70年代の匂いをあちこちで感じています。映画も『ALWAYS-続・三丁目の夕日』が撮られているようですが、ある種の懐古的雰囲気があります。
(今はマッチョ化したDr.Lukeですが、昔はか細きインテリをやっておりました・・・)
下でも話題になっておりますが、安倍さんの発言は焦点がどうも定まりません。周囲も火消しに躍起のようです。迷走なのか、はたまた作戦なのか?私は昨年から彼は二心の人だから、今後ますます心の真実と表の顔が乖離して、求心力も弱まると予言していますが、そのとおりになってきています。
一方で株式市場は500円を超える下げ、GDPも年率で-1.2%。日銀が昨年3月に総量緩和策を解除して、30兆あった準備金を一挙に一桁に減らして、そのときも懸念を表明しておきましたが、実体経済にもボディ・ブローのように効いて来ています。どうもこの国の舵取りはアブなかっしい感じがしています。
また一方の教育改革では、夏休みを短縮して、勉強をさせるとか、大学全入時代に入って卒業条件を厳しくするとか、小手先の改革が叫ばれております。ゆとり教育からまた振り子が反対方向へ振れて来ている感じですが、学びの根本は、学ぶ事の面白さを知ることなのです。そして「学び」とは「まねび」、つまりモデルを見て、その資質を取り込み、同一視を行い、成長することなのです。
が、現在のニッポンにはこのモデルがいない!ニッポンンキリスト教においても、煌びやかな教界の実現を目論む野心のある牧師やおエライさんたちの猿マネをする人々はいても、主イエスの歩みをまねぶ人はほとんどおりません。そしてすべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することは、"クリスチャン"と称する人々の間でも嘲りの対象とされております。しかしこれも御言葉どおりではあるのです:
まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」
この「あざけり」こそ、彼らのうちに働く霊の本質なのです。今、そして今後は、それぞれの心の中にあるものがすべて露にされる選別、あるいは篩い分けの時代なのです。
合宿に行く次女を菊名駅まで送ってきました。
それにしても自殺者を出したこのポスト。新大臣で、これだけはしたくなかった、と言っていた遠藤氏も辞任(→記事)。この言葉はテレと言うかポーズかと思っていたら、本人は内心ヤバサを感じていたのでしょうね。それにしても安倍さんの改造内閣、ボロボロ。デスノートに登録されているのでは、農水大臣ポスト。これから皆さんビビってなり手がなくなるかも知れません。