* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
余剰価値的一日でした。じつにまったりと・・・。
で、何気に山谷氏のBBSを見たら、まだ富井さんが私に対して訴えておられるとのこと。私が「神学の素人」で「クリスチャンでない」と結論されたのだから、もう十分ではなかろうかと思うのですけどね・・・。私的には大切な論点は網羅してしまいましたので。
何しろ私は神学書などは一冊も読んだことはありませんし、独学したこともない。高校の世界史レベルの知識、否、それすらもないなあ〜。何しろ高校時代は赤点すれすれ。入試では、当時は共通一次はなく、東大は独自の一次試験があって、理系も社会二科目を科せられていた。でもね、英数国理でほとんど100%取れるので、社会は0点でも通るわけ(イイ時代でした)。でも最終合否判定を考えてなるべく点を取っておこうと言うことで、過去問調べたら、四択で「2」の正解数が高い。で、・・・、と言うわけ^^まあその程度です。
かくして、<カルバンvsアルミニウス>なる議論も最近知った次第。で、ちょっとかじってみると、私たちサイエンティストから見ると決定論と偶然論をめぐる議論で、すでに述べたとおり、ill-posedな問題(無意味な論争)であることが分かってしまった。光は波動だ、いや粒子だ、とケンケンガクガクやっているようなもの。かなり脱力。ここでバルトがどうのと言われても、「へえ〜」としか・・・。そもそもこんなことで互いに異端のラベルを張り合っている神学者たちって・・・と。
再建主義者を見ていると、何だか(かつての)自分を見ているような感じがすると先に述べたが、これは本当です。手塚治虫の『火の鳥』に猿田博士と言う孤高の天才科学者がいて、自らの手で生命を創ろうしているわけ。しかし彼の創った生命体はガラスの中でしか生きることができない。彼は必死になって神に祈るのです、「神よ、私に生命の秘密を教えたまえぇっ!」と。
彼は自らの醜貌を恥じて人を遠ざけているが、実は温かい愛に飢えている。人の温もりに渇いている。それで自分を賛美するだけの美しい女性型ロボットを周りにはべらせるのだけど、心の空虚さが埋まらない。かくして、彼は・・・、と言う物語です。
再建主義者がヒューマニズムと断罪し、律法をもって埋めようとしている真空領域は、実はモーセ律法では満たされない。いのちではないから。モーセ律法はその型は持っているが、実質ではない。彼らはその真空領域を懸命に「学」の追求で埋めようとしているが、ガラスの外では生きることができない。彼らが求めるのは自分を認めてくれる人々。富井氏も私にある種の期待を抱いていおられたのかもしれない。残念ながら私はそれに応えることはできない。
再建主義者たちには、猿田博士の渇いた絶望的な追求の人生の道程を思ってしまうのですね。彼らは「イエスは主」と告白する以上、論敵ではなく、主にある兄弟なのです。
Lukeさんが何気に言われることは、実は神学者にとって死活問題ではありませんか?カオス理論からカルバンvsアルミニウスが無意味な議論であるならば、カルバンを基礎とすると言っている再建主義も無意味になりますからね。彼らにとってはパラダイムの根幹を揺るがしかねません。富井さんにとってはLukeさんを無視できないのです。だから徹底的にLukeさんを否定しないと、自分のアイデンティティを否定される危機なんですよ、多分。
Commented by Luke 2005年12月10日(土)23:11はあ〜、そんなものなんですかねぇ?だって、エライ神学者が何百年も前に論じてきたと富井さんも言ってますよ。私ごとき素人など問題ではないと思いますけどね。私的にはこういった話で労力と時間の無駄は避けたいだけでして・・・ハイ。