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ニッポン・キリスト教村のしきたり

ある方がメールを下さって、このサイトでは英語の"born-again"を「再生」と直訳しているが、これはあまりにも初歩的なミスで、日本の神学では「新生」が正しい用語だから訂正されたし、とご忠告をいただいた。「はあっ?」と一瞬思いましたが、「はい、ありがとうございます」と、丁重にお返事をした。ちなみに岩波訳では「再生」と訳しているのですね。(本音:どっちでもいいじゃん)

ちなみにうちのカミさんも薬剤師として薬局で働いているのだが、「お勘定をお預かりします」と答えたら、「それは預かるじゃなくて、・・・だろ!」とマジに"クレーム"をつけた客がいたそうで・・・、こわかったと。

まあ、このキリスト教と言うギョウカイ、どうもそれぞれにシマと申しますか、一定の「何か」を共有できる領域に分かれておりまして、それぞれに方言があり、しきたりがあり、村長(むらおさ)がいて、村民の言動に目を光らせておられるようです。

ある地域には「ありのままでよい」と人気を博している村長、別の地域には「すべてはモーセ律法だ」と叫ぶ戦士、また他の地域には「クリスチャン天皇を擁立したキリスト教国家ニッポンの建国を」と旗を振る元気な衆、はたまた「日本民族一億総伝道福音化運動」を提唱する長老さんたち、これでもかと「現代の使徒・預言者による現代の宗教改革を」と旗を振る革命家たち・・・と。で、普通のオジサン・オバサンたちは何だか物も言えず、ひたすらじっと息をひそめ、窒息していると言うか、霊の息を深呼吸できないでいる。

以前から「このギョウカイは要塞化している」と感じていたが、どうもこれはマチガイナイ。モラトリアムで遊びの多い私などはとても属するところがないというか、入り込めないというか、コワイなあ、と感じるのだ。ちょうど踏み絵を踏まされる感じ。私が言う「遊び」は神学用語では「中間領域」と言うのだそうだが、ここは「普通の感覚」が支配している領域。どうもキリスト教ギョウカイから受けるコワサはこの領域を侵犯される時に生じるもののようだ。

閉鎖社会ニッポンの中の閉鎖社会ニッポン・キリスト教界。ここに属することは私的には主イエスが来られる日まで、いやその日でもできそうもないなあ〜。