* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
ネットで知り合った札幌はすすき野で牧会をしているfisherさんの日記を紹介する:
http://geocities.yahoo.co.jp/dr/view?member=hopefisherman
"Hope of Japan"と言うサイトを運営されている。つねに、ややこしい理屈ではなく、素朴な彼の心の内を証ししておられる。上の日記で彼は
神様の愛に通じる犠牲愛、極端な愛です。牧会をすると境界線が見えてきます。確かに境界線を保つのは大切な教えかも知れませんが、イエス様は神と人という、最も大きな境界線を飛び越えてきた方であることを知ることは大切だと思います。愛することには、犠牲があるのです。犠牲のない愛は、厳しいかも知れませんが神の愛ではないのかも知れません。傷つくまで愛する、はマザーテレサの言葉でもありました。
と述べている。
こう言うと一部の人に怒られるかもしれませんが、私は自分に言っていることをお断りした上で、あえて言おうと思う。「境界線」は十字架ではなく、イエスに対しペテロが「ご自愛下さい」と助言した霊から出ていると感じる。それはむしろ自分を助け、自分を救うもの、つまり十字架に対立している。人が喜ぶことはしばしば神の喜ばないことである。
私も先にN兄弟に対して「一線を引いた」が、これは撤回したいと彼の日記を読んで感じた。愚かな者、うなじの強い者に対して、徹底的に付き合って下さるのが、インマヌエルなる主イエスである。
fisherさん、感謝です。
N兄との関わりの文章は今まで感銘をもって読ませていただきました。今後も主が働き続けてくださることをお祈りし読ませていただきます。
ルークさんの日記を読んで怒るような人は境界線がわかっていないと思います。ここはルークさんのHPなのですから、ルークさんがどんなことでも意見を書かれて当然。怒る理由などなにもありません。
ただ、意見の違いを表現することはできます。境界線をもつということは「犠牲がない」ということではありません。主体的な自己責任として犠牲を選択するということだと思います。
境界線のない人びとの犠牲の醜い姿を今までみてきたような気がします。彼らは確かに人生の多くの部分を自分を殺して犠牲をしてきたかもしれません。しかしそれならば、その選択をしてきたことを嘆かないでほしい。愛を尽くした相手から、愛が返ってこなかったからといって怨念をもたないでほしい。
主イエスの愛は主権的な愛だと思います。彼は、恐れに縛られたり、自己憐憫を示す人間のマニュピレーションに流されて愛をしめしたのではなく、彼自身の主権的な選択として神の姿を捨て、人の姿をとってくださった。
十字架の愛とは、イエス様の主権であり、イエス様の境界線のあらわれだと私は思います。
境界線が十字架に対立した霊なのかどうかはその実によって判断できることでしょう。
ヘブル12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
彼は私たちのために犠牲を払ってくださった。ゲッセマネの園で血の汗を流してくださった。十字架で血だらけになり、肉が裂かれた。しかし、彼は「ご自分の前に置かれた喜びのゆえに」そのことをしてくださった。
彼の犠牲は喜びと密接であった。
この方を一心に見つめて生きて行きたいです。