* 旧Dr.Luke的日々のココロ *
薪の暖炉(炎がいいです)
彼とは本当に裸の交わりをすることができる。互いのプライベートも問題も罪の問題も、ある意味で共有することができる。私も完全に素になって、ここ数年間の互いの歩みを分かち合った。そして互いの家庭のことなども祈り合い、御言葉をシェアすることもできた。彼もそれなりの重荷を負っている。が、主に明け渡す時、それは重くない。
ここ数年の間に、交わりも深く持てるようになっている。彼の追及のテーマは、死に与ること。深い死の感覚の中を歩む時に、復活のいのちを経験できる。私たちの信仰は逆説:死ねば生きる、失えば得る。キリストと共なる死にあずかり、互いに死を共有すること。現代の教界は生かそうとするミニストリーがほとんどである。死を説くミニストリーはほとんどない。
2コリント4:10-12
いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。
こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。