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普通であるということ

横浜山手にある聖公会教会が放火されて燃えた。何と信徒が火をつけたとのこと。その牧師いわく、「これは火の洗礼だ・・・」。う〜ん、ちょっと違和感。まことにお気の毒と思うが、このような場合、普通に「火をつけられた」でいいのではないか?さらには犯人に対して憤っていいのではないか?超霊的になる必要はあるまい。普通の人として、普通の反応をすればいい。

何故かクリスチャンはいろいろな事象にゴテゴテと霊的な意味づけをしたがる。「このことを通して主はこれをお語りになりたかったに違いない・・・」など。主が語られる時は明確であり、あえて「違いない」とダメ押しする必要はない。超霊的な解釈や解き明かしは時として幻想を生む。

Commented by 長谷川 彌由紀 Eメール 2005年01月21日(金)23:35

アーメン!
霊的に目を開かれていない人の普通とどう区別しましょうぞ!?
普通であることは、その人その人の普通であるとすれば、、、、、、、?
師のおっしゃっておられることは、良く分かりますが、
他の人に(特に目開かれていない人々に、どう話したらわかってもらえるかと、、、、。