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先達はあらまほしきかな

徒然草の一節だったと思う。自分勝手に念願の仁和寺を参拝したと思って帰ってきたら、実は別の寺だったと。先達(導き手)が必要であるという教訓。

今回ビデオをDVD化するにあたって、新しいドライブやソフトを使ったが、何度も失敗した。例えば、ビデオをキャプチャーしたファイルをDATAドライブに移動すると、最後が消えてしまう不思議。このドライブ上でDVDを編集してディスクに書き込むと最後がない!?あれこれ考えたり、いじくったりしつつ、これで2回失敗し、8.5Gのディスクは1,400円もするので、2,800円が・・・。

おかしい、おかしい、とうめくこと3,4日。で、風呂でボーっとしている時に、ハッと気がついた。「DATAドライブはFAT32だ。確かFAT32は4Gまでしか扱えなかった!」風呂から飛び出してFAT32からNTFSに変換すると、これでバッチリ。何だ、こんな簡単なことだった・・・。本質を外した努力はまったくの無意味。

聖書の罪(ハマルティア)は「的外れ」と言う意味。ここにいわゆる(人間的・道徳的・倫理的)善悪の基準自体はない。人類の罪は「悪を知る」のではなく、「善悪を知る」ことだった。的を外したものはすべて罪。よってパウロは「信仰によらないものはすべて罪である」と言う。→http://www.kingdomfellowship.com/Topics/temptation.html

人はつねに的外れな努力をしつつ、がんばって、ふんばって、いつか見ていろ俺だって・・・と生きている。世の人は言わずもがな、牧師先生たちも裸一貫から開拓伝道を始め、艱難辛苦汝を玉にするとばかり、貧困の中でタクアンと味噌汁のご飯に堪えつつ、ついに信徒数1,000人!会堂を2つも3つも献堂し、自分もここまで来たか・・・となる。大いなる的外れ。

「自我を砕きぃ〜」はもちろんのこと、的外れの努力が悩みを生み、カウンセラーのニーズが生まれ、○○ミニストリーを頼る人が増え、かくしてセンセイ方はそれで食べていける。問題を抱える人が多いほど、彼らは繁盛する。お互いに依存し合っている。はっきり言いましょう:クリスチャンが真理に目覚め、それぞれが主の前に立つようになるならば、これらのセンセイたちやメディアは不要となるでしょう。

的外れから解放されるためには、真理を知ること。真理はセンセイたちが手引きするものではなく、内なる真理の御霊。

ヨハネ14:26― しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

まことの先達は初穂なるイエス・キリスト。その方の霊がいま私たちのうちに住んでおられる。「聖霊の原爆」など不要(どこからこういった無神経な言葉が出るのか)。外には聖書が与えられている。この両者が相互作用するとき、光が輝く。

御言葉が開けると光を放ち、無学な者に知恵を与える(詩篇)

みなさん、誰を先達(道案内)とするか、よくよく吟味してください。的を外した努力で短い一生を無駄にしないように。道を良く知らない者が、しばしば、それらしい顔をして道案内をしているのが教界の現状です。

私は空を打つような拳闘はしない(パウロ)